2007年12月30日日曜日

素九鬼子をごぞんじですか




『素九鬼子をごぞんじですか』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 「ごぞんじですか」という問いはこの人にぴったりののもである。
 この作家のためにあるような問いである。

 Wikipediaで検索すると「検索した名称のページは存在しませんでした」と出てくる。
そしてクリックすると「素九鬼子を編集中」と出てきます。

 ホームページで検索すると、googleだと1,350件、Yahooだと530件出てくる。
 30年以上も昔の作家が現在「編集中」というのもこの人らしい。
 ということは書き手がいないということでしょうか、それとも「書いてもしかたがないや」と思われているのでしょうか。

 実をいうと私もこの作家をつい最近まで知らなかったのです。
 どうみてもと特異な名前ですので作品は読まずとも、一度みれば忘れることのない名前です。
 それを知らなかった、それだけ名前と同じように特異な作家だったということです。
 よって、みなさんの多くも知らない人がいるのではないでしょうか。

 「旅の重さ」が1972年に、「パーマネント・ブルー」が1976年に、「大地の子守歌」がおなじく1976年に映画化されているそうです。
 3本も映画化もされた小説を持つ原作者のデータがwikipediaにないというのもこの作家らしい。
 でも決して脚本タイプの作品ではなく後ろの2本は芥川賞候補にもなったといいます。
 映画「旅の重さ」は結婚のためにぱっと俳優をやめてサラリーマンの夫と外国へ行ってしまった高橋洋子のデビュー作、ちなみに脇役で秋吉久美子のデビュー作でもある。

 映画「パーマネントブルー」は一斉を風靡した小悪魔、秋吉久美子。

 映画「大地の子守唄」は原田美枝子のデビュー作で16歳。
 本当に裸の演技だったということです。 

 もちろん、これらはビデオやDVDで販売されています。

 「JaPaGablog: 大地の子守唄」にはその映画のポスターの写真が載っています。
 ちょっと気になったのは題字で、どういうわけか「大地の子守歌」になっています。
★ http:/
/japaga.seesaa.net/article/9390602.html




 彼女の作品は下記の6本。
 すべて絶版。
 しかし、中古本ならAmazonで購入できます。

1.旅の重さ (1972年)
2.大地の子守唄 (1974年)
3.パーマネントブルー (1974年)
4.鬼の子ろろ (1977年)
5.烏女 (1977年)
6.さよならのサーカス (1977年)


 先ほど書いたように私も数年前まで「素九鬼子」なる作家を知りませんでした。
 日本食料品店の二階が古本コーナーになっています。
 一週間に一度、食料を買出しに行ったとき、この二階にいって漁ります。
 帰国した人が捨て値で置いていったものですので、別に整理もされず棚からはみだし、時には床のダンボール箱に無造作に放り込まれていることもあります。
 面白い本があるかなと、棚を隅から隅までながめ、ダンボールの中をひっくりかえすのが、一時のたのしみです。

 本は買取りもできますし、レンタルもできます。
 レンタルは1冊50セント(50円)です。
 ここでは日本語を読むという本の内容のみに価値があるため、単行本と文庫本の区別はありません。
 また厚さで金額が変わることもありません。
 薄くても厚くても1冊は1冊になります。
 週に1回、だいたい2ドル4冊、あるいは6冊3ドルで借りるのが習慣になっていました。
 軽く流し読みできるスパイ物、冒険物、ハードボイルドが好きで、トム・クランシーとか「チャーリー・マフィン」シリーズのフリーマントルなどがお好みの作家なので、よほどでもないかぎりあまり日本の物は読みませんでした。

 あるときのこと、5冊選んであと1冊がなかなか見つからないので「まあ、いいか」と思って数合わせに棚から引き抜いたのが「旅の重さ」でした。
 記憶にない作家で、かつ作家名からして変てこで、タイトルは正直いって平凡なので、まあ素人作家の習作だろうと思いました。

 読み始めるのはなんといってもスリルとサスペンスもの。
 ストーリーを追いかけ時間のたつのも忘れてしまうのが読書の妙味。

 「旅の重さ」をぱらぱらとめくって「ああ、こりゃダメだ」というのが最初の感想。
 というのは「ママ」という言葉。
 田舎の少女が母親をママと呼ぶ。
 もう、これでうんざり。

 戦後の「パパママ文化」にはどうもなじめない。
 とはいうものの「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」はよく見ました。
 ここには父親も母親もいない。
 あるのはパパママという役柄だけ。
 つまり家族というのはパパママという役柄をいかに破綻なく上手に演技するかということ、そういう役柄を演ずることによってつながっている小集団がいわゆる家族。
 決して生身には向き合わない、これがアメリカン家族というスタイル。
 表面的感触は実にいい。
 さわり心地は快適、でも中は見えてこない。
 この快適さが受けて日本も「パパママ文化」が蔓延する。

 びっくりしたのは「ボナンザ」。
 西部の大家族の話。
 次男だったか三男だったか、他の兄弟がみな父親をパパと呼ぶのに、このでぶっちょのさえない男だけが「お父さん」と呼ぶ。
 テレビ会社の陰謀。
 パパはハイカラ、お父さんはダサイ、それを意識的に吹き替えでみせていた。

 小学生まではパパママでいいが、中学生以上の登場人物がパパママを使う作品は役柄のあれこれをこねくり回した、人間として内容空虚の「役柄小説」と先入的に心得てしまっている。
 この本、そのうち気が向いたとき、読むものがなくなったときのヒマつぶしにでも読もうということでそのまま棚に仕舞いこまれてしまいました。

【余談】
 貸本なので返却しないといけないのではという心配をされる方もおありかと思うが、この貸本はあくまで食料品店のサービス・客寄せであり、専業ではないため冊数だけのチェックしかありません。
 「4冊借ります」「はい、2ドルです」とカードに4冊と書き込まれて終わり。
 よって次の時は別の本を持っていって4冊にして返せばつじつま合わせが完了となります。

 本格的な貸し本屋さんがオープンしたことがあります。
 日本から大量の出所のいい古本を仕入れて、ビニールカバーをし、バーコード分類し、貸し出しました。
 残念ながらこの店、つぶれました。
 貸本をして見合うほどの日本人はいない、ということのようです。
 その本がいっとき、この2階に持ち込まれて安値で販売されたこともありました。

 また、日本のデパートが進出したときには、日本書籍コーナーができました。
 これもすぐにつぶれて家具売り場に変わりました。
 ここでは本にあまり価値がありません。

 ある旅行会社のカウンター横には「ご自由にお持ちください」という紙が貼った箱がおいてあり、古本が入っています。
 実際、私はその箱の中から、帯封までついた直木賞受賞の単行本を拾い出したこともあります。


 しばらく本棚でほこりをかぶっていましたが、まあひまつつぶし、といったつもりでつもりで読みはじめて、オーと感激。すばらしい筆力。

◆「旅の重さ - goo 映画」より映画版のあらすじをコピーさせてもらいます。

ママ、びっくりしないで、泣かないで、落着いてね。そう、わたしは旅に出たの。ただの家出じやないの、旅に出たのよ……」。十六歳の少女が、貧しい絵かきで男出入りの多い母と女ふたりの家庭や、学校生活が憂うつになり、家を飛び出した。四国遍路の白装束で四国をぐるりと廻って太平洋へ向う。宇和島で痴漢に出会い、奇妙なことにご飯をおごってもらう。少女は生まれて初めて、自然の中で太陽と土と水に溶けていく自分を満喫した。足摺岬の近くで、旅芸人・松田国太郎一座と出会い、一座に加えてもらった。少女は一座の政子と仲良くなり、二人でパンツひとつになり海に飛び込んだりして遊ぶ。一座には他に、色男役の吉蔵、竜次、光子など少女にとっては初めて知り合った人生経験豊かな人間たちである。やがて、少女は、政子に別れを告げると、政子が不意に少女の乳房を愛撫しだした。初めて経験するレスビアン。政子は、少女の一人旅の心細さを思って慰さめてやるだった。ふたたび少女は旅をつづける。数日後、風邪をこじらせ道端に倒れてしまった。が、四十すぎの魚の行商人・木村に助けられた。木村の家に厄介になり、身体が回復するとともに少女の心には木村に対して、ほのかな思いが芽生えてきた。ある日、木村が博打で警察に放り込まれた。やがて木村が釈放された夜、少女は彼に接吻したが、木村は少女の体まで求めようとはしなかった。少女はみじめな思いで家を飛びだし、泣きながら道を走り、転び、倒れたまま号泣するのだった。思い直して家へ戻る途中、近所の娘加代が自殺したのを知った。「私には加代が自殺した原因がわかるような気がする。私もこの旅に出なければ自殺したかも知れない……」。加代が火葬された日、少女は木村の家へ戻り、夜、静かに抱かれた。不思議な安息感があった。次の日より、少女と木村の夫婦生活が始まった。そして、少女も夫といっしょに行商に出るようになった。「……ママこの生活に私は満足しているの。この生活こそ私の理想だと思っているの。この生活には何はともあれ愛があり、孤独があり、詩があるのよ」。


 内容もよかったが、さらに驚いたのが巻末。
 たくさんの本を読んでいるわけではないので大きなことは言えないが、すくなくとも過去にこういう巻末はみたことがない。

 すなわちこの本、作者に無断で出版されていた。
 作家の由紀しげ子が死んだ後、その遺稿を整理していてたとき、書斎から発見されたがこの「旅の重さ」という原稿。
 編集者がその内容をすばらしさを惜しんで、新聞広告等で素九鬼子なる人物を探しはじめる。
 しかし、届けでる者なし。

 どうするか、この原稿をボツにするか、著者に無断で出版するか。
 これだけの作品をボツにすることは出版にかかわる者の心情として到底容認できない。
 そして筑摩書房出版社編集部がその全責任を受け持つ、という決断のもとに1972年に無断刊行されたといういきさつが、この巻末に述べられているのです。
 あまりにドラマチックな展開、事実は小説より奇なりではないですが、まさに「奇」。
 読んでて涙が出てきた。

 これを読んだあと私はすぐに古本コーナーへいきました。
 彼女の別の作品はあるのだろうか。
 つまり、名乗り出たのだろうか、それとも編集者が探し出したのだろうかという興味です。
 いまなら、このようなインターネットがありますから、あっという間に検索できます。
 そのころはまだまだ。
 ホームページも満足にそろっていなかった時代。
 それより何より、私自身が子どものインターネットを触り始めたのがこの4月、何とか動かせるようになったのが7月で、まだ1年にもなっていません。
 日本にいれば大きな図書館にいって調べれば彼女の別の作品をいともたやすく見つけ出すことができるでしょうが、ここではそうもいきません。とりあえずの手段は古本コーナーへいって探すこと、です。
 ありました、もう一冊「大地の子守唄」です。
 帰国する素九鬼子ファンがこの二冊をおいていったのでしょう。
 素九鬼子は見つかっていた。

 とはいえ、素九鬼子に対する資料はこの2冊だけ。
 そしてインターネットが使えるようになりました。
 検索エンジンなるものに最初に打ち込んだのが「素九鬼子」。
 やった。
 資料が次々出てきました。

 彼女が姿を現したのは、出版されて2年後のことといいます。
 知人からはじめて自分の作品が出版されていることを知って名乗りでたという。

 1937年生まれ。
 本名、松本恵美子。
 結婚して内藤恵美子。
 愛媛県西条市生まれ。県立西条高校を1年で中退。結婚後は横浜に住んでいたという。
 無断出版されたとき、35歳。
 原稿は1964年に書かれたというから、そのとき27歳。

 名乗り出た後、大地の子守唄ほか5本の小説を発表する。
 ここまでは順風満帆の作家生活。

 これで終わらないのが素九鬼子。

 5本の小説を書いた後、忽然とその姿を消してしまうのです。
 どうして、なぜ。
 女四十歳にして巷からその足取りを断つ。
 要として行方は知れない。
 印税の送り先なし。
 よってすべての作品は絶版となってしまう。
 2007年の今、彼女は七十歳になります。


 そういう素九鬼子に強烈なラブコールを送るのが「fragments_12 葉っぱの坑夫」。
 全文をコピーさせていただきます。

★ http://www.happano.org/pages/fragments/12.html

素九鬼子さま

もし何かの偶然で、このページをご覧になることがあったら、葉っぱの坑夫までご連絡いただけると嬉しいです。そんな偶然があり得るのかどうか正直なところまったくわかりませんけれど、インターネットというのは検索エンジン、互いに貼り合うリンクひとつとっても、さまざまな偶然や思いがけない出会いがありますから、何が起こるかわかりません。それを信じて、いまこの手紙を書こうとしています。

素さんの作品は、フラグメンツの企画をたてた最初のころからぜひ掲載したいと考えていたものの一つです。素さんの「旅の重さ」をはじめとする作品を読んだのはもうずいぶん昔のことですが、清冽でいきいきとした文、生命力あふれ野性を秘めた作品の印象はいまも強く残っています。他に似たもののない作品だと思います。素さんの最初の作品が出版されたのが1972年、そして1977年に最後の作品を出した後、素さんは本の世界から姿を消されています。デビュー作『旅の重さ』が、作家由紀しげ子さんの死後その書斎から発見され、筑摩書房の編集者が著者である素さんを新聞広告などを通じて探したけれどとうとう見つからず、見切り出版し、出版の2年後にやっと素さんが現れるという登場のミステリアスと同様に、今回素さんの連絡先を見つけることができない状況もなにかミステリアスなものに感じてしまうのは一読者であるわたしの身勝手というものでしょう。10月末に、当時素さんの本を出版した筑摩書房、角川書店の編集部と連絡を取りましたが、どちらも素さんの現在の消息を知らないとのことでした。

わたしの知っている素さんの情報は、結婚後に『旅の重さ』を書いて由紀しげ子さんにそれを送ったこと。それが由紀さんの死後、その遺稿の整理をしていた編集者の手で発見されたこと。当時は横浜に在住していたこと。出身は愛媛県西条市で、県立西条高校に通っていたこと。そして本名と旧姓。それくらいです。本名をたどって探すことも考えてはいますが、なぜかあまり気が進まないのです。それにペンネームとちがって本名は非常によくある姓・名です。もしこれを実行しようとしたら、日本全国のたくさんの同姓同名の方に、「あなたはひょっとして素九鬼子さんでしょうか」という質問をくりかえすことになるでしょう。

素さんの作品は『旅の重さ』にかぎらず、6册出ているどの本も今はすべてが絶版となっています。一部の図書館(国会図書館や都や県の中央図書館)でしか手に取ることができません。その図書館でも書架にあることはなく、入館者の目にふれない書庫の中でひっそりと眠っている状態です。偶然には出会うことのない作品になっています。

わたしが『旅の重さ』に20年ぶりくらいの再会を果たしたのは、素さんの全作品を所蔵している立川の多摩中央図書館で、10月の終わりのことでした。
 
ママ、びっくりしないで、泣かないで、落付いてね。そう、わたしは旅にでたの。ただの家出じやないの、旅にでたのよ。四国遍路のように海辺づたいに四国をぐるりと旅しようと思ってでてきたの。さわがないで。さわがないでね、ママ。いいえ、ママはそんな人ではないわね。

何十年ぶりかに出会う『旅の重さ』のこの冒頭。わたし自身の長い長い時間の隔たりを越えてなお新鮮でした。

ああ、ママ、旅にでてはや三日になるわ。ああどんなに楽しいことでしょう、蒲団の上に寝ないで、草の上に寝るということは。

読みすすむひとつひとつの文章が輝いて見えました。まだ10代の子どもだったころの自分に光を当てるように言葉の光線がからだの深いところに射しこんできます。

ママ、今ね、海辺に坐っているの。瀬戸内海の柔らかい波音がとてもいいわ。もやもやしている心に打ち寄せてくるこの波音は、ちょうど錆びた幾千という鈴が遠くの方で鳴っているような感じです。

そう、この『旅の重さ』は、全編がママへの手紙で構成されていましたね。高校生の娘が家出の(いえ放浪の旅の)道中から送り続けた本一冊分の手紙。

夏草のきついにおい、ママもしってるでしょう。夜中にふとそのにおいにむせて目が覚めることがあるの。そのときほどわたしは満たされた気持ちになることはないわ。

読んでいると、これは小説ではなく、素さん自身のことであったということ以外考えられないくらい、この旅や心情がリアルなものに感じられます。

わたしは男の傍に並んで腰を下して、一緒にパンを食べたわ。わたしが男にもパンを二つ上げたの。男はおいしそうに食べたわ。男の白い歯が、わたしの心を痛く刺したわ。ヒッチハイクをしているの、と男はたずねたわ。いいや、わたしは放浪しているんだと、きっぱり言ってやったの。

こうして手当たり次第にタイプしてみて、どのページもどの段落もどの行も、書き写してみたいことばにあふれているのに気づかされます。こころして選ばなくとも、パッと開いて偶然目にしたところを書き写すだけで、どれもがすばらしいフラグメントになるのです。このように書き連ねていてもきりがないのでこの辺にしておきますが、果たして素さんと、このフラグメンツを通じて再会できるのでしょうか。まったく当てもなければ自信もありません。現在の状況を数字で言えば、再会率5%くらいでしょうか。あてずっぽうですが。でも素さん本人ではなく、素さんの過去を知る方から現在の素さんの情報が入らないとも限りません。なにしろ、この不思議のつながりの場、ひょっとして生命体の一種かもしれないインターネットのことですから。

素さん、そして素さんを知る方、もしこれを読まれたら葉っぱの坑夫までご連絡ください。今後の対策を練りつつお待ちしています。よろしくお願いいたします。

2000年12月12日 Web Press 葉っぱの坑夫/大黒和恵(editor@happano.org)
文中の引用:素九鬼子「旅の重さ」(筑摩書房/1972年)より

素九鬼子
愛媛県西条市に生まれる。1972年、「旅の重さ」(筑摩書房)でデビュー。『パーマネントブルー』(筑摩書房/1974年)、『大地の子守歌』(筑摩書房/1974年)、『鳥女』(角川書店/1977年)、 『鬼の子ろろ』(筑摩書房/1977年)、『さよならのサーカス』(筑摩書房/1977年)の作品がある。
Copyright by Moto Kukiko(文中の引用文)





【■ 補記1 ■】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
『 
★ 『旅の重さ』編集部あとがき「この作品の上梓にあたって」

「 作家由起しげ子さんが、昭和四十四年末なくなられたとき、机辺にひと山の原稿が積み上げられていた。
 由起さんに私淑する人たちが閲読を乞うために送りつけて来た小説や随筆の類とみられた。

 由起しげ子さんが、文芸雑誌『作品』に小説「本の話」を発表し芥川賞受賞の機縁をつくった、当時の『作品』誌の編集長八木岡英治氏が引き続き由起家と親交があったため、遺族の請いによってその原稿類の整理に当たられたが、その中に一篇、強く同氏の心を捉えて放さぬ作品があったといわれる。

 大型ノート五冊に丁寧に浄書してあり、イラストも貼り込まれ、そのまま出版できるほどの姿に整えられていた。
 同氏はノートに表記された「旅の重さ」の作者「素九鬼子」の居所をたずねられようとしたが、遂に目的を達せぬまま、小社(筑摩書房)編集部に原稿を示され、処置を相談された。

 直接作者に接することなく、従って厳密な意味での合意もなく新人の小説を出版するということは異例に属するが、そのためらいのためにこの刊行を断念する気にはなれなかった。

 それだけの魅力と価値がある作品と信じて、あえて世に問う次第である。
 新聞広告その他で呼びかけたが、われわれは、いまだ素九鬼子さんにお会いできない。
 一日も早くこの未見の作者にお会いできることを念じている。

 一九七二年四月   編集部」





【■ 補記2 ■】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 「素九鬼子をご存知ですか」を書いたのが、昨年12月30日。

 下記の「直木賞のすべて 余聞と余分」の素九鬼子稿が今年6月22日。
 
半年ほどで新しいデータに会えたことになる。
 
今日が8月22日でちょうど2ケ月前。
 見知らぬたくさんの資料があって、どきどきです。
 なんとも、ひどくうれしい。


★ 直木賞のすべて 余聞と余分 :30代後半の主婦に襲いかかるプライバシー ...
http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/72_d5d7.html


 勝手ながら、一部を抜粋させていただきます。
 詳しくは上記のサイトでどうぞ。


 第72回(昭和49年/1974年・下半期)候補作
 素九鬼子『大地の子守歌』(昭和49年/1974年11月・筑摩書房刊)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 “この方の業績をたたえる本格的サイトが、そのうち開設されてもおかしくない”ランキングの、上位10番以内に入りそうな作家です。
 それだけ、この方の作品はいまだに多くの(一部の?)読者を惹きつけ続けています。
 たぶん。

 直木賞にたてつづけで3回連続、候補になりました。
 しかし、それがなくても、デビュー作『旅の重さ』ただ一つがあっただけで、きっと九鬼子さんの魅力は現在まで語り継がれていたとは思います。

 なので本来、直木賞オタクの出る幕じゃなかろうに。コソコソ。
 むしろ、こんな無神経な人目にさらされる暴力的文学賞の舞台に立たされなかったほうが、案外その後も着実に、創作活動を続けられていたかもしれんぞ、などと考えると、ふうむ、どうにもやり切れません。

<略>

* 昭和44年/1969年12月30日 
  作家の由起しげ子死去。
  「旅の重さ」と題された大型ノート5冊が見つかる。
* 昭和47年/1972年3月頃まで
  筑摩書房ではこの作品を刊行することに決め、作者に名乗り出てもらうよう広告など使って呼びかける。
*
昭和47年3月14日 
  朝日新聞「点描」欄で、このことが取り上げられる。
* 昭和47年/1972年4月
  しかし作者は現れずに、不明のまま刊行に踏み切る。
* 同年4月14日
  毎日新聞「社会面」で、このことが取り上げられる。
* 同年4月24日頃まで
  新聞記事を見た人のなかに、以前、作者本人からこの作品を見せてもらったことのある人がいた。
  その人が、作者本人に新聞記事のことを告げる。
  本人が筑摩書房に名乗り出る。
  筆跡などの検証の結果、「素九鬼子」本人であることが確認される。
* 同年4月27日 
  毎日新聞「社会面」で、本人が判明した旨が伝えられる。
  しかし、本名や経歴の多くは伏せたままだった。
* 昭和48年/1973年4月20日
  作者の本名・略歴等が公開される。

<略>

 1977年4月、九鬼子さんは「文庫版のための作者あとがき」を書いています。
 そのころ、すでに「静かな生活の安らぎ」と「その生ぬるい幸せ」を知ってしまっていた彼女は、ある決断をせまられたはずです。
 その年の5月、旦那さんがドイツ・ボーフムのルール大学客員研究員として渡独するからです。
 さて彼女は、いったいどうしたか。
 35歳で授かったお子さん(当時5歳ぐらい)と一緒に、旦那さんに付いてドイツに渡ったかもしれません。
 翌昭和53年/1978年3月、旦那の「サブちゃん」がその職を終えたときには、共に日本に帰ってきたかもしれません。

 帰ってきた矢先の昭和53年/1978年、縁もゆかりも深かったアノ筑摩書房は、業績不振で会社更生法を申請、その出版方針を変えざるをえない状況に陥りましたから、筑摩としては、素九鬼子の次作に手をつける余裕が失われてしまったのかもしれません。
 かたや、九鬼子さんとつながりのあったもう一つの出版社、角川書店は、こちらも春樹体制の始動期でしたから、九鬼子さんの創作姿勢とは折りが合わなかったのかもしれません。

 当然、九鬼子さん本人の心境にも、変化があったでしょう。
 そもそも、作者として名乗り出てから1年間、彼女はなるべく自分の情報を隠しつづけています。
 その公式の理由としては、「持病のゼンソクがあって、その年の10月に初の出産を控えているため、大事をとりたい。また、大学教授の旦那さんにも配慮した」といったことが伝えられています。

<略>

  毎日新聞は、彼女が個人情報を公開したときに、「「旅の重さ」の覆面作家――素九鬼子は教授夫人!」と題して(なぜ、!マークを付けているのか、ようわからんのですけど)、昭和48年/1973年4月21日社会面に、顔写真入りで3段の記事を載せましたが、そこには九鬼子さんが素顔をさらすにいたった理由が書かれています。

 「“覆面”をつづけていたころは、反響があまりにも大きく「びっくりしつづけで、ゼンソクもなおってしまった」そうだが、いつまでもベールをかぶっていると「作品を発表できないし、第一よほどの大物でないとできませんから……」とサッパリした表情。」

<略>

 コメント:投稿 毒太 | 2008年6月23日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ちなみに九鬼子さんは、昭和53年/1978年の創作活動として、「島の少年」を『子どもの館』誌に発表しているらしいです。

http://hico.jp/nihonnjidou/kodomonoyakata/61-70.htm


 素九鬼子が大学教授夫人だとは知りませんでした。
 だとすると、なんでそんなに簡単に世間から身を隠せることができたのでしょうか。
 まあ、いろいろあったのでしょうね。




【■ 補記3 ■】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

★  「映画:旅の重さ 予告編 3分 (音楽:吉田拓郎)」
YouTube - 旅の重さ 高橋洋子 (1972) 今日までそして明日から
http://jp.youtube.com/watch?v=5ROOowtIKSA



★ 「素九鬼子」の統計グラフ - はてなダイアリー」
http://d.hatena.ne.jp/keywordstats/%C1%C7%B6%E5%B5%B4%BB%D2



★ 「完璧画像検索 - 素九鬼子」
http://kanpeki.inucara.net/search/%E7%B4%A0%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%AD%90






【Top Page】




_