2008年8月9日土曜日

パパママ文化(メモ)

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 パパママ文化(メモ)
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 昨年、日本に行った。
 ひさしぶりに新宿を見て回った。
 この近くで育ったので、よく知っている街のつもりである。

 その、東京・新宿は断末魔の悲鳴を上げていた。

 沈みゆく豪華船に定員オーバーが乗っているみたいなもの。
 海の藻屑と消えるときを待って、その恐怖を紛らわすために、浮かれて船上でパーテイーをしているみたいなもの。
 アリ塚のバベルの塔。

 孤独を紛らわすために集まり、集まれば集まるほど逆に孤独が深まり、人が人を呼び、呼べば呼ぶほど寂しさの淵へ落ち込んでいく、そんな雰囲気。

 学生のときだが、デビット・リースマンの「孤独な大衆」という本を読んだことがある。
 その頃はとりたてて、印象にも残らなかったが、昨今はモービルフォンという媒体を繋がないと人間関係が維持できない人種が多いようで、それが先鋭的に具体化している。

 以前は「***殺人事件」といったストーリーだけの斜め読みできる文庫本やマンガや週刊誌で、到着駅までのヒマつぶしをしていた人がたくさんいた。

 いつでもそうだが、文庫本を車内で読む人の顔は、寂しさに満ちている。
 精気を失っている。
 おのれと会話できないため、文章の間にもぐりこみ、時間の恐怖から逃れようとしている。
 「空白の時」に耐えられない人種なのかもしれない。

 それが携帯電話に代った。
 リースマンのいうように、都会人は常に孤独の想を背負っている。
 現代人は「モービルフォン版 孤独な大衆」なのかも。

 フェース・ツー・フェースで顔を合わせても、別にしゃべることもない。
 シラケルだけの人間関係しか構築できない。
 でもモービルフォンを手にして繋がると、途端に饒舌になる。
 なぜだろう。

 「パパママ文化」だろうか。

 人間関係とはつらいもの。
 責任と責任のぶつかり合いになってしまう。
 生身で人がぶつかったらどちらも傷つく。

 「友情が大切」とは、キズつくことが大切ということである。
 つまり「傷つく」こと、「痛さ」を説く。
 人は最後まで孤独である。
 孤独を基礎にして、その向こうにどういう人間関係を築くかが友情である。

 先生は「友情」の崇高さを説くが、傷つくことは説かない。
 友だちを説くが、孤独を説かない。
 先生自体が知らない。

 先生自体がパパママ文化の落とし子なのだろう。

 先生という役割だけを担っている。
 それでいい。
 父母もパパママ文化でありながら、勝手に生身を先生に要求する。
 先生は絶対に担えない。

 「親しいオトモダチ」はパパママ文化である。
 しかし、友情はパパママ文化ではない。
 友は自分ではない。
 友は友、自分は自分。
 明らかに別もの。
 孤独と孤独のぶつかり合い。
 でも、ステージ上の同じ役割なら演じられる。

 電話という媒体を通して役割を上手に演じる。
 媒体の向こうにいる、観客にパフォーマンスを披露するのが、パパママ文化なのだろう。
 決まった枠の舞台で演じるのが仕事。
 そのつながりで成り立っているのが現代。
 舞台がないと、演じられない。
 生身になってしまう。
 生身になるとは、怖すぎる。

 電話の向こうに大衆がいる。
 演技でしかむきあわない。
 軽いタッチ。
 パフォーマンスが人を呼ぶ。
 それがまた人を呼ぶ。

 自分の役割をネットワークに押し込めないと、孤独な大衆からも弾き飛ばされる。
 パパママ文化の中にすら身のおきどころがなくなる。
 でも、パパママ文化しか知らない。
 それ以外の文化を教えてもらってはいない。
 「傷つく文化」を教えられていない。

 孤独を教えられていない。
 ならば、閉じこもるだけ。
 孤独は精神的なもの。
 閉じこもりは肉体的なもの。

 人は常に孤独なもの。
 孤独を教えないと、教えられる側は自分が世にそぐわないものと感じてしまう。
 自分と世が合わないなら、閉じこもるしかない。

 「パパママ文化は孤独を教えない」
 パパママ文化は「優等生育成マニアル」
 なぜなら、「パパとママが劣等生だった」から。
 なら「子どもは優等生に」

 そのマニアルがあるかぎり、パパママは傷つかない。
 パパママは悪くない、「マニアルが悪い」
 「パパママ文化」は責任を他人に転嫁する文化。

 北京オリンピックマラソンのワンジルは言った。
 「日本でガマンを学んだ」、と。
 パパママ文化は「ガマンともったいない」を教えない。
 「ガマン」はパパママ文化のマニアルにはない。

 人は傷ついて成長する。
 傷つかないで済む方法、「パパママ文化」に逃げ込め。
 パパママ文化は「仮面文化」
 傷つくのはパパママという仮面だけ。
 中身は傷つかない。
 至極安全。
 人間の役割を放棄して、仮面の役割を優先する。
 でも、成長が止まる。
 固定した役割だけ。

 「そして、みんな大きくなった」

 いい年をした老人が「パパ」と呼び、「ママ」と呼ぶ。
 パパママ文化は老人まで浸透した。
 いや、パパママ文化を創出したのは今の老人世代だ。
 「ハイカラ文化」をあこがれて育った世代だ。

 老人は若き日に企業戦士になった。
 彼らは日本を作った。
 傷つく自己を捧げた。
 その分、内はパパママ文化というマニアルにまかせた。
 人はマルチ能力はもっていない。

 「パパママ老人」が都心に帰ってきているという。
 理由は。
 いい医療を求めて。
 最先端医療がないと生きていけないほど日本の「人間は脆くなった」のか。
 ハイカラは人間を脆くしたのか。
 働き過ぎたのかもしれない。

 でも、いい医療を求めて帰ってきた都心「タイタニック号」は沈没を待っている。
 超高層「バベルの塔」は崩壊を待っている。
 人が人を呼び、増殖していく。
 そして最後は、増えすぎたネズミと同じ運命をたどるのであろうか。

 思考は長生きを目指す。
 だが、自然の本性は知らぬ間にネズミと同じ行動をとらせているかも。
 未来は分からない。
 わかれば苦労しない。

 長生きを目指し、長生きをすればめっけもの。
 逆もありえる。
 一分先は闇。
 舞台の上の演技ではない。
 パパママ文化では、ちょっとばかり心もとない。
 台本があり、ストーリーがあるわけではない。

 「未来にマニアルはない」
 「未来にシナリオはない」


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