2008年3月26日水曜日

三途の川3:死後の世界




三途の川3:死後の世界
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 没頭の「冥土への旅路」に「死んだらどうなる」という問の答えが4つ載っています。

 ①.真っ暗、なんにもない:::無神論
 ②.浄土へ(修行に)行く、往生、成仏:::浄土系、キリスト教
 ③.永遠の天国か、地獄へ行く:::イスラム教
 ④.六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)をめぐる:::インド教

 後ろの宗派は大まかな分類です。
 最後にこれを見ていきましょう。


 日本以外の国での「死後の世界」に関する調査データを見てみてみます。
 下記のウエブから抜粋します。
 ちょっと国名が多くわずらわしいですが、そのままコピーします。
 詳しくはホームページに直接どうぞ。

★ 神の存在、死後の世界に対する各国国民の見方
☆ http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9520.html

 世界数十カ国の大学・研究機関の研究グループが参加し、共通の調査票で各国国民の意識を調べ相互に比較する「世界価値観調査」が1981年から、また1990 年からは5年ごとに行われている。
 各国毎に全国の18歳以上の男女1,000サンプル程度の回収を基本とした個人単位の意識調査である。

 ここでは、神の存在、死後の世界に対する各国国民の見方を図録にした。
 対象国は、55カ国であり、存在していると考えている人の比率別の内訳は、以下の通りである。

①.「神の存在」を信じている人の比率別の国数と国名
──────────────────────────

「信じている」90%以上 (24ケ国)
-----------------------------------
 エジプト、ヨルダン、ナイジェリア、インドネシア、マルタ、バングラデシュ、フィリピン、イラン、ウガンダ、ジンバブエ、プエルトリコ、タンザニア、ペルー、南アフリカ、メキシコ、トルコ、ポーランド、チリ、アルゼンチン、アイルランド、米国、インド、ポルトガル、ルーマニア

「信じている」50~90%未満(26ケ国)
------------------------------------
クロアチア、カナダ、イタリア、北アイルランド、ギリシャ、オーストリア、スペイン、アイスランド、スロバキア、セルビア・モンテネグロ、フィンランド、ベラルーシ、ウクライナ、ラトビア、リトアニア、ルクセンブルク、ベルギー、ハンガリー、スロベニア、デンマーク、ドイツ、英国、ロシア、オランダ、ブルガリア、フランス

「信じている」50%未満(5ケ国)
-----------------------------------
 スウェーデン、エストニア、日本、チェコ、ベトナム


②.「死後の世界」が存在していると考えている人の比率別の国数と国名
──────────────────────────────────

「存在している」90%以上(4ケ国)
------------------------------------
 エジプト、インドネシア、ヨルダン、イラン

「存在している」50~90%未満(26ケ国)
------------------------------------
 ナイジェリア、トルコ、ウガンダ、フィリピン、タンザニア、マルタ、チリ、米国、南アフリカ、プエルトリコ、アイルランド、ポーランド、ジンバブエ、アイスランド、メキシコ、カナダ、ペルー、イタリア、クロアチア、インド、北アイルランド、スロバキア、アルゼンチン、バングラデシュ、ルーマニア、オーストリア

「存在している」50%未満(25ケ国)
------------------------------------
 リトアニア、ギリシャ、オランダ、スペイン、ルクセンブルク、英国、フィンランド、ポルトガル、ベルギー、スウェーデン、フランス、ドイツ、デンマーク、日本、ラトビア、ベラルーシ、チェコ、スロベニア、ウクライナ、ハンガリー、ブルガリア、エストニア、ロシア、セルビア・モンテネグロ、ベトナム


 神の存在と死後の世界を比べると、「神の存在」の方が一般的に信じられている。

 神の存在は24カ国で90%以上の人が信じており、50%未満の人しか信じていない国は5カ国に過ぎないのに対して、死後の世界は、90%以上の人が信じている国は4カ国しかなく、50%未満の人しか信じていない国は25カ国もある。

 エジプト人は、神の存在、死後の世界ともに、100%の人が信じている。
 ヨルダン、インドネシア、フィリピンといった諸国も、エジプトと同様の見方を示している。

 ”
逆に、ベトナムは、神の存在も死後の世界も信じていない者が多い点で目立っている。

 日本は、ベトナム、チェコと並んで、神の存在を信じない人の多い国であるが、死後の世界については、信じない人が多いが、その比率は、ドイツ、デンマークと同程度であり、それほど目立っているわけではない。


 また、日本人の解答だけを見てみます。


 日本人の回答結果(%)
-------------------------
______________: 存在する___存在しない__わからない__無回答
A)神の存在__:____35.0_______31.6________33.4_______-
B)死後の世界:____31.6________30.5________37.9_______-

 日本人の特長は、「わからない」の比率が多い点にある。
 神の存在については、世界各国の中でも、「わからない」の比率は圧倒的であるし、死後の世界についても、「わからない」の比率は世界一高い。
 日本人は、神の存在や死後の世界に対して、存在するともいえるし、存在しないともいえるという立場をとっているように見える。
 悪く言えば、どっちつかずの見方で他国から理解不能な民族ととらえられる傾向があるともいえるし、よく言えば、「
存在を証明できない」以上、「どっちでも良い」ではないかと「哲学的に考えている民族」であるともいえる。



 さらに、その続編のウエブがありますので、抜粋で見てみます。
 詳しくはホームページへどうぞ。

★ 神の存在・死後の世界を信じるものの割合の推移(ヨーロッパ6カ国)
☆ http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9522.html

 先に神の存在・死後の世界に対する見方(2000年)を掲げ、多くの人の関心を呼んだ。
 次には、宗教心、信仰心の変化と言うことで、この点に関しての時系列変化が気になるところである。

 実は、少なくともヨーロッパの主要国に関しては、世界価値観調査以前に、ギャラップ調査で同様の質問で調査が行われていたことが分かった。
 神の存在に関しては1968年以降、死後の世界については1948年以降のデータが得られるので、グラフにした。
 対象国としては、年次的に多くのデータを得られるフランス、英国(北アイルランドを除く)、ドイツ、オランダ、スウェーデン、フィンランドを掲げた。

 死後の世界、及び神の存在を信じるかどうかについては、総じていえば、戦後、大きく信仰心が衰えたが、近年は、横ばい傾向にある。

 死後の世界を信じるかについては、戦後1948年から20年後の1968年にかけて、いずれの国でも信じるものが減少している。
 フランスでは33%ポイント、英国では11%ポイント、オランダでは18%ポイント、フィンランドでは14%ポイントとかなりの減少であり、最初から低かったドイツ、スエーデンでも、それぞれ、2%ポイント、11%ポイントの減少となっている。
 1968年以降は、オランダ、フィンランドはさらに減少したが、それ以外の国では、横ばい、ないしやや上昇のところもある。

 神の存在を信じるかに関しては、1968年から1981年にかけては、いずれの国でも減少であるが、1981年以降については、回復の国もあればなお減少の国もある。



 通常、「神の存在」を信じている人は、あたりまえだが「一神教」の信者に多い。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。
 この3つの宗教はご存知のように同じ「神」を信仰している。

 聖書の主眼は「神が人を作った」ということにあり、故に「神を信ぜよ」ということになる。
 スウェーデン、エストニア、チェコはキリスト教のはずだが、それが50%と以下だという。

 バイブルが「天地・人間の創生」に関する書なら、コーランは「最後の審判」の書である。
 バイブルには天国地獄の描写はリアルにはなかったように思う。
 コーランにはそれがあり、地獄に行きたくなければ「神を信ぜよ」ということになる。
 天国がいかにすばらしいところかを描いている。

 コーランの神は常にサタンと綱引きをしており、人々をこちら側に引き込もうとする。
 それがコーランの主たる内容である。

 繰り返し繰り返しよく出てくる言葉が下記のようなもの(世界の名著「コーラン」より)。

 主を畏れかしこむ者には、下に河川が流れる楽園があり、神の饗応として、そこに永遠にとどまれる。
 神の身許にある者は、敬虔なる者にとって最良のもの。


 神とその使徒に服従する者は誰でも、下を河川が流れる楽園に入れられ、そこに永遠にとどまれることになろう。これこそ大きな成功である。


 これが、コーランでいう「死後のよき世界」である。
 「下に河川が流れる楽園」
 日本ではどこにでも普通にある風景だが、砂漠の宗教では「水」を湛えた河川は羨望の的になる。それが豊かさ、幸福の表現となる。
 ここに入れるよう「神を信ぜよ」となり、イスラムでは死後の世界と神の存在は一致している。

 コーランは聖書とは違って読む機会も少ないでしょうから、参考に極楽と地獄を引き抜いてみます。

 このような者は、近くに召され至福の楽園に入る。
 錦織の寝台の上にむかいあって寄りかかる。
 永遠の少年たちが、そのまわりを酒杯と水差しと、泉から汲んだ満杯の杯などを献上して回る。
 頭痛を訴えることも、泥酔することもない。
 彼らは好みどおりの果物を選び、鳥肉も望みどおりのものを得る。
 目の大きな色白の乙女もいる。
 彼女たちはまるで所業に対する褒章というもの。
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 実が重なり合っているタルフの木と、広々とした日陰と、湧きでる泉のそばにあって、果物は多く絶えることもなく、食べるのを禁じられることもない。
 高くしつらえた寝台が、彼らのためにある。
 われらは、この乙女たちを造っておいた。
 けがれない処女を造りあげておいた。
 同じ年頃のかわいい乙女にしておいた。
 これらは、ひとえに「右がわの者」にあてがうためである。
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 「左がわの者」とはだれか、左がわの者とは。
 業火の炎と、煮えたぎる熱湯と、黒煙の影のもとにあって、涼しさもたのしさも、まったくない。
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 おまえたちは、ザックルームの木の実を食べ、胃袋はいっぱいにふくれ、そのうえに、煮えたぎる熱湯を飲むのだ。渇き病に取りつかれたラクダのように飲むのだ。
 これが、審判の日に彼らが受けるもてなしである。
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 彼が神の近くに召されるものであれば、休息と、おいしい食べ物と、至福の楽園がある。
 もし、右がわの仲間なら「おまえに平安あれ、左がわの者よ」。
 もし嘘つきで、迷う者の仲間であれば、煮えたぎる熱湯のもてなしがある。
 業火の炎で焼かれるのだ。
 これは、全部、明々白々たる真理だ。
 よって、偉大な何時の主の御名を讃えよ。


 「酒はうまいし、ねえちゃんはキレイ」、それがコーランの天国極楽。
 ついでに、「美少年」もいる。
 それがコーランの天国極楽。
 イメージとしては、わかりやすくていい。
 あの世もこの世と同じ欲望で動いている。


 比較のために、キリスト教の「死後の世界」についてWikipediaで見てみます。
 まず「地獄」について。

 地獄は、キリスト教においては、聖書の内容から存在が導き出されている。
 旧約聖書や新約聖書まで地獄に関する内容が数十箇所に現れる為、これらの記述により地獄説が存在する。

 しかし、天国とはどこかと言われる説明はイエスによって説明されるが、地獄についてはいったいどんな所なのか聖書上一切説明されてない。
 こういったことによりアメリカで始まった新しい教会(現在異端視されている)エホバの証人などは地獄を一切否定する。

 カトリック教徒である14世紀イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリは、その大著『神曲』の中で、九圏から成る地獄界を描き、地獄のイメージを決定づけた。


 次に「煉獄」について。

 煉獄とは、古くは「浄罪界」とも訳され、主にカトリック教会の教義において、死後地獄へ至るほどの罪はないが、すぐに天国に行けるほどにも清くない魂が、その小罪を清めるため赴くとされる場所である。
 ただ、第二バチカン公会議以降の教会の現代化の流れにより、現代のカトリック教会で煉獄について言及されることはほとんどない。

 地獄は救いの無い場所、天国は罪の一切無い場所と定義されるが、煉獄はキリスト者として罪の贖いを受けて救済を約束されていながら、小罪および罰の償いが残っているため、浄化を必要とする者のためにある場所と考えられている。

 カトリック教会ではこのような煉獄の死者のために祈りなどを行う伝統があったが、教皇の免償の権威が死者にも及ぶのかという問いをマルティン・ルターが投げかけたことが宗教改革の発端となったという歴史的経緯から、プロテスタントの諸教派は煉獄の概念を否定した。

 また、正教会にも死者のために祈るパニヒダという伝統があるが、聖伝に記述が無いとする理由から、また、陰府と天国の間には大きな淵があるという見解から、正教会ではそもそも煉獄の存在を認めていない。


 上記の「地獄・煉獄」については、ダンテの「神曲」に勝るものはない。
 Wikipediaから検索してみます。

 神曲は、
* 地獄篇(インフェルノ)(Inferno)
* 煉獄篇(プルガトリオ)(Purgatorio)
* 天国篇(パラディソ)(Paradiso)
 で構成される。

 長くなりますので、興味をお持ちの方は「Wikipedia」で検索できます。


 話を戻します。
 上記の調査で、「ベトナム」は、神の存在も死後の世界も信じていない者が多い点で目立っている、と言っています。
 ベトナムの宗教は錯綜してわかりにくいようです。

★ ベトナムの宗教
☆ http://www5c.biglobe.ne.jp/~vdg/book_religion.html

 でも、一概に死後の世界を信じていない国に分類されているというのは解せません。
 錯綜はしているということは、言い方をかえるとダイナミックで、盛んであるということもできます。
 調査結果としては、そういう答えが出てきた、ということなのでしょう。

 例えば、司馬遼太郎の「人間の集団について」から抜書きしてみよう。

 ベトナム人の抗戦力の強さは、ひとつには輪廻転生を信じていることにもよる。

 「私がこの世でおそれているものは何もない。ただ仏さまだけがおそろしい」、ということをサイゴン大学の女子学生の口からきかされたときには、私は骨の痛むほどの感動を覚えた。

 ベトナム人の精神の世界には、三界六道に死んでは生まれ、生まれては死に、生と死が轟々と旋回してかぎりなく継続していくという古代インドの生命思想が、ぎらぎらと生きているのである。

 ベトナム人の八割までが仏教徒である。

 カトリックや回教には、死ねばもう一度、この世にうまれかわっていくという思想はないのである。

 日本人は仏教の伝統を持つくせに、もう何世紀も前から輪廻転生を信じなくなっている。
 ベトナムにあっては仏教とは輪廻転生の信仰のことだと言い切ってしまえるほどに、この考えは鮮烈であり、普遍的である。

 すべての生命は三界六道を轟々とまわっているのである。

 個人としては、これほど死後にゆたかさを感じているひとびともすくないのではないか。


 「あとがき」にこうある。


 幸い、私がサイゴンの空港についた4月1日(1973年)の前日までに、アメリカ兵がひきあげてしまい、ついに制服のかれらを見ることなく滞留することができた。-----
 私の半生の中で、このベトナムにおける短い期間ほど楽しい時間はなかったように思える。


 よってこが書かれたのは「35年前」というはるか昔になりますが、民衆の宗教心が一世代でガラリと変わるとは思えないので、もし司馬遼太郎の論が大きく間違っていないとすると、どう考えても「ベトナム人は、神の存在も死後の世界も信じていないという人が多い」というのは、ちょっと信じにくいことなります。

 共産党政権下のため、表面的には無神教的装いをしているということもありますでしょうから、あまり適切なデータがとれないということも関係しているかもしれません。

 まあ、統計というのは世界中を「同じ視点で計れるものではない」とを、理解しておくだけでも価値があると思います。


 最後に日本の「地獄」について、Wikipediaを見てみます。

 日本の仏教で信じられている処に拠れば、死後、人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔をはじめとする十王の7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。
 地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。
 そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる。

 こうした地獄の構造は、イタリアのダンテの『神曲』地獄篇に記された九圏からなる地獄界とも共通することがたびたび指摘される。
 たとえば、ダンテの地獄には、三途の川に相当するアケローン川が流れ、この川を渡ることで地獄に行き着くのである。



 衆生が住む閻浮提の下、4万由旬を過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各2万由旬ある。 この無間地獄は阿鼻地獄と同意で、阿鼻はサンスクリットaviciを音写したものとされ、意味は共に「絶え間なく続く(地獄)」である。

 その上の1万9千由旬の中に、大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の7つの地獄が重層しているという。
 これを総称して「八大(八熱)地獄」という。これらの地獄にはそれぞれ性質があり、そこにいる衆生の寿命もまた異なるとされる。

 また、この八熱地獄の四面に四門があり、門外に各4つの小地獄があり、これを合して「十六遊増地獄」という。
 八熱地獄と合せば「百三十六地獄」となる。
 また八熱地獄の周囲に、横に「八寒地獄」があるともいわれる。

 また、山間廣野などに散在する地獄を「孤独地獄」という。

 地獄のこの世と異なる点の一つに、「自然」が無いということがある。
 自然環境破壊に対する関心が高まっている現在においてこのことは示唆的であろう。


 これでわかることは一つ。
 地獄は坊主にとってマニヤックな対象。
 これでもか、これでもかというほどに想像力を流し込む。
 そして、あまりにも広げすぎ、一般人にはほとんど理解できないものにしてしまった。
 たんなる物知りの世界となる。

 「バカの一つ覚え」に沈んでしまった。

 こうなるともう先の統計調査ではないが「あるかも知れなし、ないかも知れない」になってしまう。
 そして、つまるところ「どっちでもいい」「どうでもいい」に落ち着いてしまう。

 坊主の大失敗。

 「地獄には自然がない」。
 すばらしい視点ですね。

 天国は木々が生い茂り、果物が豊富で「下に河川が流れる楽園」、自然そのもの。
 つまり、現世の延長上にある至高の楽園が「天国」。
 「オラは死んじまっただ、オラは死んじまっただ、天国に行っちまただ」
 「天国よいとこ、一度はおいで」
 「酒はウマイし、ねえちゃんはキレイ」

 現世とはブツリと切り離された、現世的想像では不可能な場所が「地獄」となる。
 よって地獄の表現は言語ではできない。
 だからこそ、坊主には垂涎の対象になる。
 しかし、どうやっても「人間の視点」「人間の考え」が入ってくる。

 「地獄には自然がない」、これがもっともいい表現かも。
 とすると、結果は「どうでもいい」に落ち着いてしまう。



<おわり>



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