2008年3月20日木曜日

三途の川2:閻魔の大失敗


● 冥土の旅の物語:地図
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三途の川2:閻魔の大失敗
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 新宿に太宗寺というお寺があります。

 縁日などに行った覚えがありますが、ここには閻魔堂があって、中央に閻魔様が、左に「奪衣婆(だつえば)」の像があります。
 「奪衣婆」などというカッコいい名前ではありませんでした。
 いわく「舌抜きババア」です。

 閻魔の横に馬鹿でかい「釘抜き」があります。
 下記のサイトで写真でみられます。
 「釘抜き」というのをご存知ですか。
 今はペンチになったり、プライヤーになったりして形が変わっていますが、昔はこの「釘抜き」を使ったものです。
 我が家にもありました。

★ 探索 内藤新宿・太宗寺(閻魔像と奪衣婆)
☆ http://www.geocities.jp/sakuragaoka5364/html/enma.html

 余談ですが、ここのハードウエアショップにはありません。
 ところが、この釘抜きを先日見つけました。
 場所は、中国からの輸入品を売っている店です。
 中国ではまだ作っているのですね。
 すぐに買ってきて使ってみました。
 でもちょっと弱い。
 焼きが甘いのですね。
 先がすぐに欠けてしまいました。
 まるで、歯抜けババアになってしまいました。
 昔、わがやにあった釘抜きは実に硬くて使いやすかった。

 「ウソをつくと、閻魔様に舌抜かれるぞ」とずいぶんと脅されたものです。
 閻魔帳に書かれていないようなウソをいうと、あのでかい釘抜きを使って、舌を「グイ」と引っこ抜かれます。
 ババアが右手にもっているのがその抜いた舌です。
 その舌がベローンと長いのです。
 ちょっと長すぎるとは思っていたが、きっと「ウソつき」の舌は、引きに抜かれるとああいう具合に長くなるのだろうと思い込んでいた。
 なんという気持ちの悪さ。

 ところが、今回この記事を書くにあたってウエブを見たら、右手にもっているのは舌ではなく、亡者から剥ぎ取った衣とあります。
 「え、そんなこと」。

 ということは、このババア、単なる「追い剥ぎ」ではないか。
 絶対に閻魔庁が追い剥ぎをやるわけはない。
 今の今まであれは「引き抜いた舌」だとばかり思っていたのですから。
 親からもそう教わったと思いますが。
 どこでまちがえたのでしょう。
 衣より「舌」の方が絶対に迫力があります。


 三途川とは此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川です。
 とすれば、三途の川で「天国・地獄への行き先が決まる」はずだと思うのが、本筋だと思います。

①. 極楽へいく人は「金銀七宝で造られた橋を渡る」。
②. 地獄へいく人は「強深瀬」または「江深淵」をいく。
③. 「山水瀬」をいく罪の軽い人は「四道」へいき、そこでの修行で極楽へ行くか、地獄へいくかが決まる、というのが納得のいく論理でしょう。

注).「四道」というのは、「六道」が「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」ですから、このうち地獄と天国(極楽)を除いたものをいいます。

 これが「普通の判断」でしょう。
 ところが先の「冥土への旅路」などでは、三途の川を渡ったあとで判断が下されるという。
 これだと「金銀七宝で造られた橋を渡」った死者が、裁きで地獄にいくこともありうるということで、もしそうなったら、ひじょうにおかしなことになる。
 同じように「江深淵」を渡ったものが極楽にいくことになったら、これもひどく矛盾している。

 三途の川は平安時代にはちゃんと、3つの渡し方を持つ川としてあった。
 そのころのパースペクテイブはこうだ。
 三途の川の手前に、「閻魔宮」があった。
 そこに閻魔大王がいた。
 閻魔宮の前を「賽の河原」といった。
 ここで死者は閻魔大王の判断を待つことになった。
 その期間が四十九日である。
 よってこの間、魂はこの世にあって、あの世には行っていない。

 閻魔大王の裁きで、極楽へいくか、地獄へいくかがきまる。

 極楽へいくとされた死者は橋を渡ることができ、渡った後はその道が極楽へ通じているというわけである。
 だからこそ「金銀七宝で造られた橋」であるわけです。
 いわゆる「極楽橋」です。

 地獄へいくものは強深瀬をいき、そこには「川の流は速く、波は山のように高く、川上から岩石が流れてきます。
 そして川底には大蛇が潜むという最悪の場所です」。
 いわゆる「地獄の渡し」です。

 「四道」へいくものは、水はひざ下までしかない浅瀬の山水瀬をわたることになります。

 これで、論理はすっきりします。
 つまり、閻魔宮・閻魔庁はこの世側の賽の河原にあった、そこで閻魔の裁きが行われた、ということです。

 それが、ニセ物お経「十王経」で作りかえられた。

 三途の道がなくなった。
 橋が取り壊された。
 浅瀬もなくなった。
 何とか歩いて渡れる強深瀬も消えた。
 そして導入されたのが、「三途の渡し舟」。
 ここではこの世での罪の軽重は問われない。
 なぜか。
 それは、十王経にみるように「閻魔宮」があの世側に引っ越してしまったためである。
 渡し賃の「六文」を払えば誰でも死者は渡し舟に乗れ、通称三途の川を渡れることになった。

 もし、渡し賃がないほど貧しいということであれば、この世では「思いやり」という温情があるが、ここではそれがない。
 「奪衣婆」という追いはぎが衣服を剥ぐ。
 もし、裸でいったら、衣服のかわりに「皮を剥ぐ」。
 いくらこの世で徳を積んでも、何もならない。

 「あの世もこの世もカネ次第」
とこのお経の「ウラ言葉」はそう言っている。

 「貧乏人は決して極楽へはいけない」
というのがお経の「根本精神」。

 「人生ゼニや、生きているうちにカネをためろ」
これがお経の「教え」。

 「そのために努力せい」、坊主は叱咤激励する。
 人生とは「努力・忍耐・根性」の総集。
 なんとも「ありがたい」お経だ。
 これで明日への活力が湧く。

 三途の道がなくなり、渡し舟にかわったということは、三途の川に何か大きな変革があったからだろう。
 もし、それがないならなにも舟など使わずに、歩いて渡れるはずである。
 何があったのか。
 それがこの稿のテーマ「三途の川 大改修の謎」。

 ところがだ。
 それに関する資料がどこにもない。
 これはどうしたことか。
 「何かおかしい」

 「冥土の旅の物語」は「生前の罪により、三通りの渡り方がある。
 別説には「渡し船」があり、船頭に「六文銭」をわたして、川向こうへ」である。
 「三途の川 渡り方」では「平安時代の末期頃までは前記のように橋を渡ったのですが、「室町時代以降」からは「船」になります」とあるだけ。
 Wikipediaでは「平安時代の末期に、「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡舟によって渡河するという考え方にシフトする」とあるだけ。

 なぜそうなったか、肝心なところがどこにも見えてこない。
 「あの世この世の仕組み」を根本から替えてしまうほどの大事、それがスンとも見当たらない。
 少なくとも、これまでに読んだ書物の中には、これに対する解答に近いものはなかったといっていい。
 おそらく、「誰も知らない」。
 「なぜ」。
 だから「謎?」。


 でもあったのですね、ズーと昔に読んだ「マンガ」に、この答えが。

 古い昔のこととてタイトルも作者も忘れていますが、「弘法大師物語」といったたぐいのマンガではなかったかと思います。
 つまり、弘法大師は死んで(ちなみに、弘法大師死んではいないというのが真言宗の提要)「あの世でなにをやったか」、というのをマンガにしたものです。

 おそらく、弘法大師の映画が作られて、けっこう観客を動員した頃のマンガではないかとおもうのですが。

 もしかしたら見た人もおられると思いますが、どんな内容であったか、覚えている限りで、簡単にかつ過剰装飾でドラマチックにまとめてみます。
 マンガなどというとバカにされるとおもいますので、このあとは興味のあるかただけで覗いてください。
 これは作者の想像のお話と思いますので、お奨めしませんので。


 三途の川というのは、橋がかかっており、行き来の自由の川。
 また別に橋を使わなくても辛いが歩いて渡れる川である。
 ということは。
 そう、あの世から簡単に「この世に来られる川」ということになる。
 やってきたのです。
 「地獄からの脱走者」「四道からの逃亡者」が、わんさかと。
 もちろん、人間の肉体をもっているわけではない。

 地獄からの脱走者を「魑魅魍魎」といい、四道からの逃亡者を「妖怪変化」という。
 これがあの世からの侵入者だというのが、このマンガの著者の説なわけです。

 困ったのが責任者の閻魔大王、「管理不行き届き」「勤務怠慢」ということになる。
 この世とあの世を厳格に別け、それを保持するのが閻魔のお仕事。
 それがうまくいっていない、ということになる。

 対策としてまずは橋をとっぱらって、かわりに「渡し舟」にした。
 また、管理を厳しくして地獄からの脱走者はなんとか食い止めた。
 しかし、四道からの逃亡者はその数が多く、防ぎきれない。

 三途の川は苦しいが歩いて渡れる川。
 橋が渡し舟に換わっただけでは根本的解決にはならない。
 何とかしないといけない。

 「なんとかせねば」と閻魔が頭を悩ました。
 そして、下した結論、「三途の川の廃止」を決めた。
 やることがすごい。

 ①.三途の川を大河に改修し、この世とあの世を完全に絶つ。
   渡し舟のみにし、それ以外の渡河はできないようにする。
 ②.閻魔宮をあの世側に引越しさせる。
   よって、この世側では罪状の判断はしない。
 ③.これまでこの世側に渡った、魑魅魍魎・妖怪変化のヤカラを根絶やしにする。

 ②は閻魔大王単独の決定でできる。
 だが、①と③はできない。
 どうしたか。
 それようの適任者を二人この世に送り込むことにした。

 それが、織田信長といわゆる豊臣秀吉である。
 そして仕事を終えたら「同時に」あの世に召喚して、災いを絶つ、というのが閻魔の目算であった、とマンガ家は考えたらしい。
 すばらしい着想。

 まず織田信長の仕事とは「魑魅魍魎・妖怪変化」を平らげること。
 彼らは一般の手出しのできないところに隠れ逃げ込んでいた。
 それが「比叡山延暦寺」と「石山本願寺」。

 信長は閻魔の意にそって精力的にこの2つの力を殺いでいく。
 閻魔の希望通りにことは運んだ。
 一通り終わったところで、閻魔は巧みに信長を消した。
 信長への報償として妹の娘の子を「天下人」にする。
 それが三代将軍「徳川家光」。

 次は秀吉。
 彼の仕事は何だと思いますか。
 そう、三途の川の大改修に必要な専門職人集団を養成して、あの世に送り込むことである。
 彼は数万とも十万とも言われる「黒鍬衆」という土木建設集団をつくりあげた。
 秀吉には軍事の才能はない。
 でも土木事業の才能は実に豊かである。
 それは閻魔が秀吉に与えたもの。
 彼の出世も閻魔が仕組んだもの。
 でなければ、「軍事の才もない」どこの馬の骨かわからない水飲み百姓が、一軍の将になれるはずがない。

 ところが、閻魔の上手の手から水がこぼれてしまった。
 秀吉は得意の土木工事の水攻めで毛利の高松城を囲んだ。
 ついに高松城は降伏する。
 そこえ、ご存知「信長、本能寺で死す」の報。

 閻魔の演出はすばらしい。
 タイミングがピッタリ。
 しかし、閻魔は自分の才におぼれた。
 閻魔の予定では、ここで毛利が秀吉を打ち、信長と同時にあの世へ召喚し、そして毛利が天下をとらせるというものであった。

 しかし、その上をいっていたのが秀吉。
 「大逃げ」を敢行する。
 歴史上では「大返し」というが、内実は大逃げである。
 あっという間に毛利の目の前から消えてしまった。
 山陽路を逃げて逃げて逃げまくる。
 ひたすら逃げまくる。
 出だしをしくじった毛利は追えない。
 あっという間に距離が開く。
 もうあとの祭り。
 秀吉の「大逃げ」は毛利からであるが、本当は「閻魔の手から」である。

 「閻魔、今生の大失敗」(閻魔に今生があるかどうかは知らないが)である。

 こうなるともう閻魔は秀吉には手はだせない。
 なぜなら、秀吉とは「閻魔の手からすり抜けた人間」だから。
 秀吉は天下をとり、もうろくジイサンとなるほど長生きをして消えていくことになる。
 怒り狂った閻魔は秀吉の子孫縁者を皆殺しにして、その胤を絶つ。

 信長は天下をとれなかったが、血縁者が天下をとる。
 秀吉は閻魔から逃げた運で天下をとったが、子孫はすべて根絶やしにされてしまう。

 閻魔大王は次の政権は毛利と思っていたがヘソをまげた。
 徳川に与え、そこで信長の子孫を繁栄させる。
 よって毛利が天下をとれるのはそれから三百年後になる。

 しかし、実際困ったのは閻魔大王。
 予定が大幅に狂ってしまった。
 土木工事人がいない。
 折角、信長が根絶やしにした魑魅魍魎妖怪変化もこのままだと、また増え始める。
 閻魔が悩みぬいた。

 そして考え出した苦肉の策、それが「弘法大師」の呼び出しである。
 日本歴史上「最高の天才」といわれる人物、それが弘法大師である。
 それに彼には土木の才がある。
 人々も付き従う。
 これ以上の人物はどこをどう探してもいない。

 だが、その弘法大師は「ウン」とはいわない。
 当然のこと、三途の川の改修工事など彼のかかわるところのものではない。
 閻魔も必死、ウンと言わないなら、次は脅し。

 「高野山焼き討ち」をほのめかす。
 これは効いた。
 比叡山焼き討ちの前例がある。
 信仰上、弘法大師は「入定」している。
 入定とは「死」ではない。
 復活までのお休みである。
 もし、高野山が焼き討ちされ、弘法大師のミイラが焼けてしまったら、復活はない。
 「大師信仰」は地に落ちてしまう。

 弘法大師はついに引き受ける。
 条件をつける。
 絶対に「三途の川大改修は公表しない」こと。
 もし風聞でも広まれば、弘法大師は死んだことになってしまい、大師復活説が消滅してしまう。
 もちろん閻魔はこれを受け入れる。
 閻魔にとっては願ったりの条件。
 なぜなら、閻魔の失敗を隠蔽できる。

 これにより、なぜいつの間に理由もなく「三途の渡河」が「渡し舟」に変わったかが、理解できる。
 「三途の川大改修」が終了した時点で、そのデータ資料の一切が、閻魔の手によって闇に葬られたのである。
 弘法大師の要望を入れてというのは名目、本当は閻魔の大失敗を隠すために。

 水源の調査から始まる。
 マンガではどうだったろうか。
 弘法大師は3回くらい「冥界山脈」に分け入っている。
 この冥界山脈の頂に尽きぬ水を湛えている「黄泉湖」があるといわれている。
 これを探しに出かけるのである。
 弘法大師の冒険探検談、この辺のストーリーがマンガでは面白かったように思ったのだが、ここでは飛ばします。
 艱難辛苦の末、ついに黄泉湖を見つける。

 三途の川の大改修が始まる。
 工事はこの黄泉湖の水を三途の川へ流し込むことにある。
 戦国乱世の時代の膨大な死者が動員されついに、黄泉湖の一部が切り崩され、湖の水が新たな川筋を刻みながら流れ落ち、三途の川に落とし込まれた。
 三途の川は尽きせぬ流れの大河に姿を変え、満々の水を湛え、百倍の大きさになったという。
 黄泉湖の水は美しい至福の水だが、いったん湖を流れ出すと、すべてのものの生気を抜く水に変わるといわれている。
 三途の川は、泳いでは渡れなくなる。


 てなところが、マンガの内容なのですが。

 まあ、よく考えるものです。
 著者の想像力に感心してしまいます。
 本当にSFの世界です。

 なを、閻魔宮があの世側に引っ越してからの情報は「ない」、と言われています。
 閻魔が「大失敗」以降のすべての情報を封印したためである。

 よって「十王経」の内容は、これも坊主の作ったSFと思ってさしつかえないと思います。
 そのためか、やはり他の仏典のスケールのでかさから見ると、ちょっと内容に品がないように感じられる。
 このマンガ、いとも鮮やかに、三途の川の渡しが、舟に代わった理由を説明しているとおもいませんか。
 実際に、徳川の時代には「化け物・幽霊」はいても、「魑魅魍魎・妖怪変化」はいないはずです。

 これが「三途の川 大改修」の謎解きの概略である。
 いかがでしたか。


 折角入った「あの世」ですので、もうちょっと"おまけ"で散策してみましょう。

 「六道」は度々出てきましたが、「六道輪廻」思想というのがあります。
 人の命というものは生を受けたが最後、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」をグルグル廻るという恐ろしい思想です。

 私は「天」が最後の到達点でそこに至るまで「五道を廻る」ものとばかり思っていました。
 なぜなら「天」に至った高成にして清浄な魂が、また地獄に落ちるなどというのはどう考えてもおかしいし、もしそういう要素を含んでいるなら、はじめから「天」には入れるはずがない。
 よって五道輪廻と最高到達点としての天をあわせて六道輪廻というものとばかり思っていました。
 ところが、これがちがうのです。

 Wikipediaを見てみました。するとこうある。

 たとえ「天道」であっても、苦しみの輪廻する世界を脱することは出来ない。
 諸行無常の原則により、どの世界に生まれ変わろうとも、何時かは死に絶え、別の世界(或いは同一世界)へ転生する宿命。上記六種の世界は、須弥山世界観等においては、しばしば空間的領域として捉えられる。
 この輪廻の道から外れたものを俗に「外道(魔縁)」という。


 ちょっと、これサギだと思いませんか。
 絶対にサギだと思います。
 サギ坊主のしたたかなやり口のように思えます。

 では、天道からどうして没落してしまうのか、続けてみます。

 天道
─────
 天道には天人が住まう。
 天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間に比べてほとんどないとされる。また、「空を飛ぶ」ことができ「享楽」のうちに生涯を過ごすといわれる。
 しかしながら煩悩から解き放たれては居ない。
 天人が死を迎えるときは五つの変化が現れる。
 これを「五衰(天人五衰)」と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。


 まったく、「いい加減にしろ」と言いたくなります。
 といいながら、「うんうん、なるほど」といって楽しんでいる。
 悪い性格である。
 まちがいなく地獄行き。
 なるほど口先坊主とはうまいことを考えるものだと感心してしまいます。

 ちなみに、残りの五道も載せておきましょう。

 人間道
──────
人間道は文字通り人間が住む世界である。
四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。また、仏になりうるという救いもある。

 修羅道
──────
 修羅道は修羅の住まう世界で、修羅は終始戦い、争うとされる。
 苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。

 畜生道
──────
 畜生道は牛馬などの世界である。
 殆ど「本能ばかり」で生きており、人間に使役され殆どなされるがままという点は自らの力で仏の教えを得ることの出来ない状態であり、救いの少ない世界とされる。

 餓鬼道
──────
 餓鬼道は餓鬼の世界である。
 餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると灰となってしまい餓えと渇きに悩まされる。
 前世において他人を慮らなかったために落とされた例がある。
 旧暦7月15日の施餓鬼会はこの餓鬼を救うために行われる。

 地獄道
──────
 地獄道は生前の罪を償わせるための世界である。
 詳細は地獄を参照のこと。


 まさに、死後の世界とは「SF」の世界ですね。
 いかようにでも解釈できるようになっている。
 つまるところ「声の大きいヤツが勝ち」の世のようです。



 <つづく>



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