2008年3月6日木曜日

台湾3:「中華国」復帰への可能性




台湾3:「中華国」復帰への可能性
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 「日本人は永遠に中国人を理解できない」という「不思議な本」がある。
 文庫本にもなっていますので読まれた方も多いでしょう。

 迅速性と明快性がもとめられる情報化社会にあって、中国人の気の毒ぐらいに下手な対応を、あたかも美点のごとく述べたてている。
 この著者は心配になるほど世界の流れが見えておらず、「中華の世界」を至上と思い込んでいる。
 中華とは「自らをかえりみることのない思想」であるが、その簡易版のショーウインドウみたいな内容である。

 「孔健」という方が書かれたものだが、この方は孔子の「第75代直系子孫」だという。
 読んでみればわかるのだが、われわれからみると、中国人の欠点短所というものを臆面もなくさらけ出し、それを誇こらしげに自慢しているのである。
 日本人なら反省点としてあげて、それを恥とし、克服する努力を強いるものをである。

 昔、林芙美子の小説を「台所のゴミをひっくり返したような作品」だ、と言った人がいた。
 この言葉を借りるなら、この本はひっくり返したゴミの臭を、「至宝の香ばしさ」であると強調しているような内容である。
 その香りを味わえない「かわいそうな日本人」といっているように聞こえる。

 孔子といえば、日本に与えた影響も大きく、「仁・義・忠・考」といった日本人の思想のバックボーンにはその色合いが濃く反映されている。
 ところがその直系の方が論じているのは、「この世はゼニや」ということである。「ゼニこそすべて」といっている。

 孔子様の本にはそんなことひとつも載っていないのだが。
 もしかしたら、「ゼニこそすべて」という中国思想に絶望した孔子が、人間としての理想のあり方を「空想的」に論述したのが「論語」だったのかもしれないが。

 欲望のままに生きるなら動物と何ら変わらない。
 それをどう制御するかが「倫理」である。
 論語は倫理の束である。
 その束の大きさをもって価値とするのが思想である。

 日本風倫理の行き過ぎが「武士は食わねど高楊枝」というポーズになっている。
 そこには自制心が強烈に息づいている。
 プロテスタンチズムというのは、「労働とは神が人に与えた罪科」とするカソリックに対して、「働く」ということに人間の意義を見出したものであり、その結果としての「経済」であるが、この本は人間の生きる意味は「オカネ」をもってして価値を計るものだとしている。

 日本人から見てみると、『永遠に中国人を理解したくない』でしょう、出来れば避けたいでしょう、ということを広く宣伝しているような本である。

 あるいは、別の面から見ると、使ってはいけない言葉であるのだが、「中国人自ら」が如何に「傲慢にして劣等民族」であるか、そんなことを行間に書き連ねている本である。
 人口という圧倒的ファクターを除けば、「箸にも棒にもかからない民族」であると言っているのと同じである。

 「決して日本人と中国人は理解しあえることはない」と、喜々として歌い上げている。
 そして「決して日本人と中国人は親しくお付き合いできることはない」ということを、声高く宣言している実に不思議な本である。
 果たして、そんな偏った「負のイメージの中国人」を日本人の中に宣伝してもいいものなのであろうか。

 中国人とは誠心をもたない「お金ロボット民族」である、というプロパガンダなのかも知れない。
 そのお金ロボットと親しくお付き合いの出来ないかわいそうな「日本人の悲劇」を教えてくれているのかもしれない。




 考え方はいろいろであるが、本当に世の中にはいろいろと変わった人がいるものである。
 そういう変わった人の意見というものが、既成概念をうち砕いて、次の世界への展望へいざなっていくのかもしれない。
 「お金ロボット」というのは普遍性を持つ。
 普遍性とは合理主義ということでもある。

 私にとって中国は、「宮城谷昌光の世界」で十分楽しい。


 今度は台湾から離れて、中国本土の歴史を見てみましう。

 Wikipediaから検索します。

 1949年に共産主義政党による一党独裁国家である中華人民共和国を樹立、翌年までに台湾および福建省の一部島嶼を除く中華民国の統治国土を制圧した。
 なお、その後中華民国政府は台湾島に遷都し、その後台湾島とこれらの島嶼地域は現在中華民国の統治下にある。

 中華人民共和国は、国家指導者の指導理論や政策などによって、毛沢東時代(1949年 - 1978年)と鄧小平時代(1978年 - )の二つの時代に分類する事ができる。


 一時代を作った毛沢東、「毛沢東は何をしたのか」。
 現在では文化大革命の負のイメージが強い。
 合理的歴史主義者、司馬遼太郎の「長安から北京へ」から任意に抜書きする。


 かっての中国のあいさつ言葉が「めしを食ったか」、という言葉だったことはよく知られている。
 私のように戦前にすこしだけ中国語を習った者は「チー、ファン、ラマ」という言葉を最初に習い、この言葉の発音だけは自信がある。

 「いまの中国は」、はるかな紀元前から続いているこの文明圏にあって、そして紀元前から絶えることなく飢餓が続いてきた政治の歴史の中にあって、「最初に全人民を食わせることのできた国家」である。

 この一点でも驚嘆すべきだし、さらにいえばこの点一つからすべてのことを類推しても、大きく誤るということはない。

 中国の歴史は四捨五入していえば流民(あるいは農民暴動)の歴史として見ることができる。
 人民は生きるために村をすてて流浪する。流民群はまたたくまに膨れ上がり、自分たちを食わしてくれる大将を求めて動く。

 「英雄」には大小があるであろう。
 「大小の基準」はどれほどの数の「流民を食わせる」ことができるかということにかかっている。
 五万人の流民を食わせる能力の者は五万人だけの勢力を張るが、流民が十万人までになると、その英雄の能力が破綻する。
 英雄は「夜逃げ」をするか、あるいは百万人を養いうる大英雄のもとに流民ごと行って、その傘下に入れてもらわねばならない。

 要するに歴史時代の中国の為政者は、人民が飢えることを最もおそれねばならず、それをおそれぬ政権はやがてほろびた。

 中国官僚や読書人のようなのは、建設の害であり、そういう種類のひとびとはプロレタリア文化大革命で一掃された。
 人民に飯を食わしてゆくことができなければなにもならないのである。

 私の念頭を占めている感想は一つしかない。
 「中国はすみずみまで人民を食わせてゆくことをゆるがぬ大綱にしている」、ということである。


 すごいですね。
 「銀シャリ」の比ではありません。
 続けます。


 「まず、人民と軍隊にメシを食わせよ」というのは、「毛思想」のなかでもっとも「凄味のある言葉」といっていい。

 彼は中国の正史やひ史に通じ、さらにはその豊富な農村との接触によって中国人の誰よりも中国人を知っているし、それについての自信もゆるがぬものがあるののにちがいない。
 「人民・軍隊にメシを」食わせねば中国というものがどうなってしまうのかということについては、党の秀才たちがどう言おうとも、はっきりそれを予言できる人物である。

 解放前、中国における小作人というのは奴隷に等しかったが、それが農民の70%にまで増えていたといわれる。

 そして

 新中国を歩いていて思うのは、たしかに人民がこの大陸のすみずみまでよみがえったということである。

 中国を歩いていて、中国人がこのひろい国土のすみずみに至るまで生き返ったという大事実だけはゆるぎもないことである。
 誰もがメシを食っていて、誰もが血色のいい顔をして働いている。


 「毛沢東は何をしたのか」という問いに対する答え。
 毛沢東は「人民にメシを食わせた」。
 もうこれだけで、北京の人民大会堂に飾られる価値があるということなのです。

 この印象記は1975年5月に中国に行ったものをベースにして書かれています。
 その1年4ケ月後に毛沢東は死亡している。
 つまり、司馬遼太郎は「毛沢東の成果」としての中国を見て回ったことになる。

 このメシの食えるようになった中国、政争相手も毛沢東がきれいにしてくれた中国を、そっくり引き継いだのが「鄧小平」。
 よほどの無能力者でなければ、そこそこやっていける基盤を与えられた幸運な老人。
 老人には時間がない。
 自力でやっていくには時がかかりすぎる。
 「経済特区」という共産党理念にはそぐわない不可解なものを持ち込んで外国の資本に頼ろうとする。
 彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」。

 単なる老人のアセリ。
 共産党理念、どこ吹く風。
 反対するヤツはいない。
 毛沢東がすべて粛清してくれた。

 つまるところ、商業資本主義への回帰。
 それが可能であったのは、毛沢東が中国人民をメシを食えるようにしてくれたから。
 これからはその上の段階、すなわち豊かさの追求へと進まざるを得ない。
 そのためには、農村共産主義ではダメ。

 こいつが成功した。
 中国には、やっとメシの食えるようになった「低賃金労働者」が底なしのように存在していた。
 外国資本と自国の低賃金労働者で物を作り、それを外国に売りさばく際のパーセンテージで利益を吸い上げる。
 一党独裁ならそれも自由に可能。

 「国家資本主義」。
 中国共産主義によれば悪の典型。
 昔の発想でいうなら「走資派に自己反省」を、「自己総括」を、といったところになる。
 外国資本にタダに近い労賃を提供し、それで作らせたものを、外国資本が世界に売りさばいてくれる。
 国家の前に共産党がある。
 共産党のふところへそのカスリとしての「カネ」がうなるようにころげこむ。
 ヤクザのテラ銭みたいなものだ。

 Wikipediaを続けます。

 鄧小平時代の中華人民共和国は、政治体制は中国共産党による一党独裁体制を堅持しつつも、市場経済導入などの経済開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた。
 その結果、経済の改革開放が進み、「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長をした。

 一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。

 また、政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢をとり続けている。
 1989年の六四天安門事件や2005年の反国家分裂法成立などはその一例である。


 中国は軍隊を持っていない。
 国軍はない。
 「中国陸軍」という言葉も、「中国海軍」という言葉も正式には聞いたことがない。
 軍隊をもっていない国といってもいい。
 その点からいうと珍しい国である。

 Wikipediaを続けます。

「中国人民解放軍」は、中国共産党中央軍事委員会(主席:胡錦濤)の指揮下にある「中国共産党の軍事部門」であり、「国家の軍隊(国軍)ではない」。

 国務院の管轄下にない解放軍はあくまで党の軍隊であり、国家の軍隊ではないとする。
 党と軍の関係については、明確な法規や規定に基づく法治体制は存在せず(ただし軍事委員会主席は別)、人(党主席)と人(軍幹部)との関係に基づく人治体制となっており、党主席の立場では軍を完全に掌握するのは難しい。
 そのため、毛沢東など歴代の最高指導者は軍事委員会主席を兼任している。

 人民解放軍が国家の軍でなく党の軍であるという立場をとるのは、「国家の軍隊」が国家による人民を抑圧・搾取する手段であり、侵略・植民地支配の手段であると規定されるからであり、最大の暴力装置である軍隊を国家を指導する立場である党が管理するのは当然であると考えられたからである。
 建前上、人民解放軍は人民の軍隊であり革命を遂行・防衛するための軍隊であるとされている。

 しかし、ソビエト連邦でもこのような理論は現実的でないとして第二次世界大戦後の1946年に赤軍を「国家の軍隊」である「ソビエト連邦軍」に改組している。


 すなわち、ソビエト連邦は「国軍」を持っていた。
 しかし、中国の人民解放軍は今なを国軍ではない。
 さらに、続けます。


 第二次天安門事件が発生した時に、人民解放軍が、民主化勢力(民主化運動に理解を示していた一部の政府中枢を含む)と共産党保守派のどちらかに付くかを、全世界が注視したが、中央軍事委員会主席の命令について民主化勢力の弾圧を行った。
 人民解放を冠した軍隊が人民を弾圧した光景は第一次天安門事件の時に四人組からの命令を最後まで無視した姿とは余りにも、対照的であったが(四人組は最終的には民兵を動員した)、
 「人民解放軍の行動は中央軍事委員会主席の一言に左右されている」
ことを知らしめた。この弾圧によって、国際社会の人民解放軍を見る目がいっそう厳しくなり、中国人の中にも「人民を抑圧している軍隊」という印象を持ち、人民解放軍に失望した。


 このように理論上でも中国人民解放軍は「共産党軍」であって、「国軍」ではない。
 「司馬遼風」に言うと、英雄がメシを食わせてくれたために、そこに集まった軍ということになる。
 その英雄が、一時は毛沢東であり、今は英雄不在なので「共産党」となる。
 メシを食わせてくれる「英雄共産党」の軍が「中国人民解放軍」である。

 中国人民を解放する軍であるが、「解放」とは他の「英雄党軍」を叩きつぶすことである。
 そして英雄を共産党一党にするための軍である。
 中国に、他の英雄がいなくなった今、人民解放軍は「中国国軍」にならねばならないのだが、それはWikipediaで述べているように、「国軍とは人民を抑圧・搾取する機関」としているためにできない。

 「中国人民」とは共産党軍下でメシを食わせてもらっている「党人民衆」の略。
 「中国国民」とは国家保全に参画している「国家民衆」の略。いかなる英雄党軍下であるかは問わない。
 中国人民を中国国民にすることは、他の英雄の出現を将来させてしまうことになる。
 よって人民解放軍を「国軍にすることはできない」、というわけである。

 この「弱点」は致命的でもある。
 つまり「国軍でない」ということは、理論的に「他の英雄軍の出現がありうることを認めている」ことであり、そちらの英雄軍が「もっとうまいメシを食わせてくれる」となると、そちらが中国を支配することが可能ですよ、ということを自ら認めている、ということになるからである。

 「永遠に国軍になれない」というやりきれない十字架を背負っているのが人民解放軍である。
 家康風にいうなら「降ろすことのできない大きな荷物を担いで、坂を上り続けること」である。
 やめたら、転げ落ちるのである。

 ソビエトはこの弱点を克服するために、赤軍を国軍にした。

 ということは、いつまでたっても共産党とは蛮勇割拠する英雄の一人に過ぎず、今は「たまたま」中国の支配者になっていますよ、ということである。
 人民解放軍とはそのことを物語っている軍である。
 共産党とは中国のにおける「一時の支配者」であり、人民解放軍とは中国軍ではなく、その一時の支配者の私軍である、そういうことを「認める論理」の上に成立しているという背反を含んでしまっている。

 簡単にいうと、こういうこと。
 「誰が中国を支配しても、中国という国家を犯すことはない。
 なぜなら今の中国に「中国という国」は存在していないから。
 あるのは党という英雄の作った「私国家」であり、国民国家・民族国家ではないから。
 よって常にこの私国家の前に党という英雄がいる」。

 よってご自由に、中国は「切り取り自由です」。

 まるで孔健のいうように「ゼニや」の世界です。
 強いやつ・英雄が私軍力で支配する。
 いまはたまたま共産党とその党軍が支配しているだけ。
 いつひっくり返るかわからない。
 よって、その時「ゼニを握っていたヤツが勝ち」の世界である。
 「財布の重みで価値が決まる社会」なのです。

 民主主義の浸透した倫理観の強過ぎる日本人にはとても入っていけそうにない世界です。
 やはり「日本人は永遠に中国人を理解できない」のでしょう。


 2010年に「上海万国博覧会」があります。
 ここまでは、中国は安定していると言われている。
 というのは、党をあげてこの博覧会の乗り切りにかかりきるだろうから。
 では「2011年以降」はどうなるのか。
 見えてこない。

 わずかにたった「3年先のことが見えてこない」。
 さほどにダイナミックなのが中国。
 どうなるのか誰にもわからない。

 「中国四千年の歴史、その大地のようにゆっくりと動く」といったことはまるでありえない。
 四百年分が四十年で動く国、四十年分が四年で動く社会、それがいまの中国。

 いずれの時にせよ、時間の近い遠いは別にして、共産党は崩壊する。
 貧しければ英雄がメシを食わせてくれる。
 そこへいけばいい。
 毛沢東がメシを食わしてくれた。
 それがこれまでの中国。

 次は。
 メシが食えるとイエが欲しくなる。
 「国家」というイエが欲しくなる。
 国家ナシでは「豊かさという重荷」を背負いきれるものではない。
 歴史は動いていく。

 今度は「メシを食わせてくれるヤツ」から、「うまいメシをくわせてくれて、国というイエを作ってくれるヤツ」が中国を支配することになる。

 腹の中にしこたまゼニを抱え込んだ共産党がどういう動きをするのか。
 「カネ冷え」で共産党組織がゲリを起こすこともある。
 「ゼニの重さ」に耐え切れずシンドロームを誘発し、底が抜ける可能性もある。

 それがいかほどのものかは下記でみれます。
 日本の1.5倍、ロシアの3.5倍で世界トップ。
 これすべて、人民を安く使って得たもの。
 一人儲け。
 「搾取」ではなく「極搾」である。
 すべて共産党のフトコロへ。
 まさに金が「うなって」いる。

★ ロイター
☆ http://jp.reuters.com/article/economicNews/idJPnTK002336920071001

 外貨準備高の世界トップ5カ国(単位:億ドル)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  2007年8月 2006年末
────────────────────
 中国 _ $14,000 $10,660
 日本 __$9,320 $8,950
 ロシア _ $4,160 $3,040
 台湾 __$2,610 $2,660
 韓国 __$2,550 $2,390


 「都市戸籍」と「農村戸籍」を作って、あからさまに党人民を差別して、理念を踏みにじっている共産党に対して、農民が「おいしい豊かなメシ」を求めて、動き出すことも考えられる。
 共産党ではない、「新たな英雄」を求めるかもしれない。
 それは様々豊富に実験済みの中国である。

 としたとき、その矛先を変え目先をそらすために、台湾問題を持ち出してきて、軍事力行使というパフォーマンスを実演する可能性もある。


 台湾へ戻ろう。

 共産党がゲリをしパンクすること、農民が英雄を求めて、「イエを求めて」動き出すこと、これは独立拒否の台湾にとっては当然のことに朗報になる。

 中国の台湾侵攻はどうか。これも朗報になる。
 いつかはやらねばならないプロセスであったとあきらめれば、台湾人の結束が強固になる。通常軍事力では、中国が台湾侵攻に成功するとは思えない。
 それになんと言っても世界世論が「判官びいき」で台湾に見方する。

 逆に言えば、台湾はそれを望んでいるかもしれない。
 それをうまく利用して台湾の中国侵攻が実現するかもしれない。
 もし台湾が独立国ならそれはできない。
 台湾が中国の一部であるからこそできる芸当である。

 もし、大陸の一部に、ほんの僅かでも台湾軍が侵攻すれば、「英雄共産党神話」はもろくも崩れて、共産党の内部崩壊を招くおそれもある。

 蒋一族の独裁からの解放、指導者の民選という政治プロセスを経験してきた「台湾の政治キャリア」は、共産党崩壊後の中国にとって貴重なものとなる。
 「イエ」を造るための下図になる。


 まとめると、こういう社会心理構図になる。

 共産党支配の中国にあっては、台湾人はタイワニーズでありたい。
 しかし、中国が「イエ」としての中国になったら、台湾人もまたチャイニーズでありたい。


 いつでも独立できる今、それを実行すべきか、否か、ハムレットの心境ともいえる。


 今もなを、日本の一般国民にとって台湾は、フリッピン、インドネシアと同じくらい情報のすくない「遠い国」である。
 台湾が日本にその姿を知ってもらおうという意志がないのに、日本がその片棒を担ぐ必要もない。
 「やる気がない」ならそのまま放っておけばよい。

 日本にとって台湾があることによって中国への牽制になり、石油輸送のシーレーンを保全するに格好の足場であるなら、その方向で台湾を利用すればよいということである。
 やる気のない台湾は、日本にとってあくまで「道具にすぎない」。
 それもしかたあるまい。台湾が選んだことだ。


 今月22日には「総統選挙日」である。
 一般用語でいうと台湾「大統領選挙」。
 タイワニーズを選ぶか、チャイニーズを選ぶか。
 どちらに転んだところで、日本にとって蚊に刺された程度の痛みも感じない。


 最後はこのニュースで閉じます。

★ ロイター
☆ http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-30656120080305

 台湾、台湾企業による中国への投資規制を緩和へ  2008年 03月 5日
──────────────────────────────────
 台湾行政院は5日、台湾企業による中国への投資に関する規制を緩和すると発表した。

 台湾企業は1990年代初め以来、「1000億米ドル以上(約10兆円)」を中国に投資してきたが、投資の上限が純資産の40%に抑えられていた。

 新たな規制では、40%の上限は純資産と連結ベースの純資産のうち多い方を用いて計算されることになる。
 台湾企業は以前から、この投資規制や他の規制措置により、中国に進出する他国の企業に比べ競争上不利になっているとして、不満を訴えてきた。
 台湾当局は3月22日の総統選挙を控え、与党の民進党が有権者の支持を得るため、40%の投資上限や他の規制を緩和する方針を示していた。

 実施日は明らかにされていない。
 』


 「欧クン」は寒い新潟で日本を楽しんでいるだろうか。
 「住んでみたニッポン」、日本の印象はどうだろ。



<おわり>



【Top Page】



_