2008年1月1日火曜日
コニー復元クラブ
● 軽三輪トラック:ヂャイアント・コニー
コニー復元クラブ
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「コニー」とはなんぞや。
コニーとは「いにしえ」に製造販売されていた軽トラックの名称です。
「軽自動車とはなんぞや。」
近年の話題としては、2006年10月に三菱自動車「i(アイ)」が軽自動車としては初のグッドデザイン大賞を受賞したことを記憶されている方も多いと思います。
温暖化現象の認識浸透によりエンジンの大きさが「1300cc」程度の小型車(ビッツetc)を「エコカー」と呼ぶようになっていますが、現在の軽自動車はその半分の大きさである「660cc」未満のものをいいます。
しかし、マニアにノスタルジアを掻き立てる軽自動車とはエンジンがさらにその半分ほどの「360cc」未満のものです。
この規格は1955年に設定され、1976年の改定まで約20年間続きました。
また、この間の1968年にはこれまで比較的取得しやすかった軽自動車専用免許である軽自動車運転免許が、交通事情の悪化に伴い十分な運転技量を求める、ということで廃止されてしまいます。
すなわち、1955年---1968年までの約13年間に製造されたものが、古きよき時代、開発発展期を迎えた「いにしえの軽自動車」に分類されるわけです。
その軽自動車で多くの人々の印象記憶に残っているのが、この2つ。
1.ダイハツ・ミゼット(軽三輪トラック)
2.スバル360(軽乗用車)
1955年8月にダイハツ・ミゼットが発売されました。
「250cc・10馬力・バーハンドル」。
ちなみにバーハンドルとは丸ハンドルではなく「へ」の字の棒ハンドルをさします。
大村昆の「ミゼット、ミゼット、ミゼット----」の連発で車をまわりをめぐるCMで人気をとった軽三輪トラックです。
たった「250cc」という小さなエンジンにもかかわらずこれはよく走りました。
一般商店の配送車として圧倒的な人気がありました。
タイやインドなどでは今なお走っている姿をみかけるという名車中の名車です。
1958年に販売されたのが「スバル360」、往年の国民車。
かぶと虫に似たフォールクスワーゲンのミニチア版のようなデザインで、まだ日本の自動車普及率が高くなかった1950年代のモータリゼーション推進と日本の道路事情に見合った車の開発をめざした「国民車」構想というのがありましたが、この「スバル360」の開発は「軽自動車の枠で、普通乗用車と同じ能力を」というスペックで開発されたもので、最初から国民車構想をさらに上回るものであったといわれています。
車が買える収入にとどきそうになった階層が一番最初に目指した車がこれで、右の家もスバル、左の家もスバルといった風景があちこちにみられました。
この時期、軽自動車メーカーが乱立し、次から次へと軽自動車を市場に送り込みました。
そのひとつが愛知機械工業が製造した「コニー」というわけです。
「コニー復元クラブ」の紹介文の全文をコピーします。
『
<< 復元クラブ紹介 >>
■ ク ラ ブ 名 称
コニー・グッピー・ヂャイアント復元クラブ
■
設 立 の 目 的
(1) かつて愛知機械が独自ブランドとして生産販売していた自動車が現在、クラシックカーとして価値を認められている。
その名車達が人知れず朽ち果てて行くのを惜しみ、発見・救出し、次の世代へ引き継ぐべく保存可能な状態まで復元する。
(2) 同様の目的で、既に全国で活動中の愛知機械独自ブランドの自動車愛好者、特に「全国ヂャイアント・コニー愛好会」の復元支援を行う。
■
活 動 内 容
愛知機械が独自ブランドとして過去に生産販売した自動車を対象に
(1) 復元作業、修理作業
(2) 復元車両の展示、イベント参加
(3) 社外愛好家との情報交換、交流
(4) 資料の収集、散逸防止を行う。
』
ホームページにのっている復元車両は下記の4台です。
1.<AF7 コニー編 第一部> No.1 ~ No.36 … 完結
<AF7 コニー編 第二部> No.1 ~ No.7 … 完結
2.<AF3 コニー編> No.1 ~ No.24 (未完)
3.<AF8 グッピー編 第一部> No.1 ~ No.10 … 完結
4.<AA27 ヂャイアント・コニー編> No.1 ~ No.3 (未完)
まず、こんな具合に始まります。
『
「コニー」って車を知ってる?
若年層では名前すら聞いた事が無いと思うけれど、昭和40年代に全国を走り回っていた愛知機械製の軽4輪商用車なんだ。
社内でもずいぶん長いこと忘れ去られた存在だったんだけど、ある事を切っ掛けに復元保存の活動をする事になってね。
その切っ掛けとなったコニー360(車両型式:AF7)という車を入手するところから物語は始まります。
まずは、そのAF7の姿を御覧下さい。
それでは第1話、「救出に行こう」。
』
全部で80話。
読みごたえ、見ごたえがあります。
感動します。
でも、相当に(いやひどく)疲れます。
覚悟がいります。
メカ好きでないかぎり女性向きではありません。
コニー復元クラブのホームページです。
http://www.aichikikai.co.jp/club/
ところで、なぜ私がコニー復元クラブを訪れることになったか、そのいきさつを述べておきます。
自宅の数軒先に鉄工所がありました。
そこで使っていたのが復元記にもある軽三輪トラック「AA27 ヂャイアント・コニー」でした。
その鉄工所はそれを小型トラックに買い替えました。
コニーもそれにつれて鉄工所から姿を消しました。
その消えたはずのコニーがどういうわけか1キロほど先にある自転車屋の隣の空き地においてありました。
売り物になっていたのです。
ちょうど我が家でも車が必要になってきていましたので、この出場のはっきりしたこのコニーを安く譲ってもらうことになりました。
しかし、買い替えをしたときに販売店に下取りで引き取られたはずです。
それがなぜ自転車屋に置いてあったのでしょう。
下記のホームページを読んでみてください。
『
32年8月、ダイハツ工業(株)が軽三輪トラック「ミゼット」を発売した。
このミゼットは、軽免許、安価(20万円前後)、燃費の良さ、維持費の安さなど、手軽さと経済性を売物とする軽三輪車ブームの火付け役となり、東洋工業(株)の「マツダK360トラック」(34年5月)、新三菱重工業(株)の「レオ」(34年8月)などが相次いで発売された。
<略>
当社においても市場ニーズに対応して、33年12月、ダイハツミゼットのひと回り上をねらって開発した、軽三輪トラック「コニーAA27型」を発表、34 年3月から発売した。
バックボーンタイプのフレームに丸ハンドルを装備、エンジンは軽自動車枠いっぱいの359cc、最大出力15.6馬力、水平対向2気筒、強制空冷「AE57型」を搭載し、頑丈で実用的な車であった。
しかし、当社では軽三輪トラックは過渡期の商品として認識していたので、並行して軽四輪車の開発、生産準備を進め、軽四輪車市場への本格的参入を図ることにした。
それでも軽三輪車コニーは、35年6月の生産打切りまでの約1年半で累計6,935台を生産、販売した。
』
このコニー、たった1年半で製造停止になった代物だったのです。
そして販売台数がなんと7千台弱の非常にマイナーな車(ちなみに軽四輪コニーは発売9カ月で一万台を突破し、昭和35年12月には月3千台を超えている)。
ために値がつかず、下取りがきかず、近くの自転車屋さんに売れたら売ってくれ、ということで預けられていたという経緯があったのです。
そんなこととは露知らない我が家ではトラックながら「はじめて自動車を持った」と、うきうきしていたというわけです。
なを、この「コニー」という名称はこの軽三輪トラックを発売するにあたり、公募をして1万7千件の中から選んだといいます。
ホームページにはこのペットネーム募集のチラシの画像も掲載されています。
『
当社は、昭和33年(1958)年12月に発表した軽三輪車トラックのペットネームを、全国の大都市圏を中心にマスコミ媒体を通じて募集した。
同車の宣伝効果を狙ったものであるが反響は予想以上に大きく、34年1月20日の締切りまでに1万7,111通の応募があった。
そのなかから最終的に33点に絞り込み、慎重に選考した結果、「コニー」(Cony=兎の古語)を選定、「ヂャイアント」に代わる愛称として当社の軽四輪車すべてに用いることにした。
なお、当選者には賞品として、テレビ・電気冷蔵庫などを、その他多数の応募者にも抽選により賞品を贈った。
』
「軽三輪コニー」はたった7千台ほどの生産をもって、姿を消してしまう。
そして「コニー」の名前だけが「軽四輪」に引き継がれていきます。
私がその「軽四輪コニー」を最初にみたのは晴海の会場で行われた自動車ショーのときです。
軽四輪トラックという新しい車の登場に、ブースは人の山となり私も熱心に係員の説明に耳を傾けていました。
ホームページより 抜粋します。
『
昭和34年(1959)9月26日夕刻、東海地方を強襲した伊勢湾台風(台風15号)は、満潮時と重なって伊勢湾沿岸地帯を中心に未曾有の被害をもたらした。
愛知機械工業も、熱田工場のプレス・板金・塗装・修理・鋳物の建屋等工場全体の約3分の1が冠水し18日間に渡って操業不能に陥ることとなり、損害額は窓ガラス・スレートの破損などを含め5,800万円にものぼった。
この被害により、翌月に開催される全日本自動車ショーに向けての準備作業が中断、出品を予定していた愛知機械工業初の軽四輪車「コニー360トラック」の新車を用意出来なくなってしまったが、既に造られていた試作車を突貫で再整備し化粧直しすることにより、自動車ショーへ出展することが可能となった。
東京晴海埠頭で開かれた第6回全日本自動車ショーの会場には、「くろがねベビー」、「スズライトTL」、「昌和ミニカ」、「パドル」など他社の軽四輪商用車に混じって展示された本格的なスタイリングを纏った「コニー360トラック」は、入場者の注目の的となった。
』
この軽四輪コニーの当時のカタログを見ることができます。
『
★ カタログで見る昭和30年代の車
http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-7/cony/cony.html
長い時の流れをさかのぼり懐かしい車の世界をよくぞお尋ねくださいました。
今はほとんど見られなくなってしまった当時の車をカタログより紹介させていただきます。
見たこともない人の方が多いでしょうが参考にしていただければ幸いです。
画像はフリーですお気に入りの画像があればご自由にお使いください。
<<< コニー360 >>>
主にオート3輪自動車ヂャイアント号を生産していた愛知機械工業が昭和34年に軽自動車に進出して発売したのが「ヂャイアント・コニー」呼ばれる軽三輪でした。
その後、軽四輪の「コニー360」が発売され2回のモデルチェンジしながら昭和45年まで生産されました。
昭和34年(1959)11月 コニー360 発売........
昭和35年(1960)3月 ライトバン 発売..............
昭和45年8月 コニー360生産終了...................
当時の価格は ..コニー360トラックが[ 300,000円]
........ ....ライトバン DXが [ 360,000円]
..........................ライトバン STが [ 345,000円]
昭和36年(1961)度のコニーの生産台数は「37,242台」となっています
昭和36年(1961) 型コニー・360をカタログより紹介させていただきます。
』
そして最後に、この車のデザイン。
ホームページより 抜粋します。
『
軽四輪トラック「コニー360」のデザインは、昭和33年(1958)5月、東京の新大久保にあった宮田デザイナーの事務所で始まった。
コニーは「楽しく仕事ができる、明るく、運転のしやすいクルマ」というコンセプトが設定されていた。
このためデザインは、親しみやすさ、軽快感、安定感をテーマとして進められたが、「軽自動車」という限られたサイズのなかでいかにボリューム感を出すかが最大の難問であった。
しかも、アイデアスケッチはわずか2週間という限られた時間のなかで、答を出さなければならなかった。
その間、デザイナーは文字通り不眠不休であったという。
当時、クルマのデザインはフェンダーの前にヘッドライトを置くのが主流であったが、コニーはそうしたデザインから脱却することで独創性を追求。
“カエルの目玉”の愛称で親しまれた特徴的なヘッドライトを持ち、ボンネットのラインを車体の側面まで延ばした当時としては斬新なデザインを完成させた。
』
そんなわけで、軽三輪トラックの復元が気になってしかたなく、ときどきこのホームページを訪れるわけです。
復元記はまだ3話で、工場に運び込まれ、状態をチェックしたところまでです。
●復元予定の「軽三輪トラック・コニー」:[コニー復元クラブ]より
まだ復元作業には入っていません。
「やる気満々のまま次回へ続く」が3話の終わりで、2005年の末ということですから、すでに2年たっています。
「やる気満々」はどうなったのだろう。
復元されるのであろうか、それとも工場の隅で朽ち果ててしまうのだろうか。
興味津々で「コニー復元クラブ」と打ち込み、検索エンジンを走らせています。
■ダイハツ・ミゼット、スバル360、コニー等は自動車博物館 トヨタ博物館 日本自動車博物館に展示されています。
http://www.geocities.jp/rabuca2003/jidousha
■ ダイハツ・ミゼットとスバル360
『
●日本の自動車技術240選 - ダイハツミゼットDKA
http://www.jsae.or.jp/autotech/data/3-13.html
●youtube
http://jp.youtube.com/watch?v=xpeqVSxlw4A&feature=related
●日本の自動車技術240選 - スバル360 K111型
http://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-20.html
●youtube
http://jp.youtube.com/watch?v=rWE4p-t3gj4&feature=related
』
【Top Page】
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