2008年1月10日木曜日
古本事情1:司馬遼太郎
● 司馬遼太郎
古本事情1:司馬遼太郎
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一年ほど前のことになります。
新宿の図書館にいって、隣の喫茶室コーナーで休みました。
隅に書棚が並んでおり、その上に「ご自由にお持ち帰りください」とかかれた説明書きが貼ってありました。
図書館であまった本を無料で配布しているとのことです。
公共図書館の大半は開架式になっていますので、館内における冊数には限りがあります。 新本が入ってくると、その分ふるい本が押し出されてしまいます。
おそらくは過去のデータを調べ、あまり貸し出しされていない本をこのように配布しているのだと思います。
係りの人から聞いた話では、そのような自由本を目当てにぐるぐる回っていい本を回収して、売れるものは古本屋へ、ちょっと売れにくそうな本はガラクタ市で売るのを仕事にしている人がいるとのことです。
中央図書館では閉架式と兼用になっていますから、開架式とは別の箇所、たとえば地下室とかペントハウスとかに書籍倉庫に、開架できない本が保管管理されていると思います。
年間膨大な数の本が出版されている日本では保管できる冊数にこれも限りがあります。
おそらく別の場所に収納施設を作って、そこに保存して借り出し希望があったときに運んでくるというシステムをとっていると思います。
三鷹中央図書館の壁ははそのほとんどが、背の高い本棚で埋まっていました。
早川出版や創元社のスパイのも、ハードボイルドものの文庫本は3mにもなる天井下いっぱいまでびっしりと詰まっており、係りの人に記入した図書カードを渡すと、ハシゴを動かして取ってきてもらうシステムになっていました。
このたぐいの文庫本は自由に取り出してパラパラとめくって読むか読まないかの判断するものですが、いたしかたないのでしょう。
机椅子はわずかしかおいておらず、ここでは本を読むことはできずに、探すだけに利用するという形でした。
もう一つ人から聞いた話。
地方の小さな自治体が図書館を造ったが、図書購入費の予算が十分とれず、図書館内を本で満たすことができなかった。
そこでアイデアとして「新刊本同様の単行本の古本を送料自腹で寄贈してください。
もし、同一本が複数あった場合は売却して、図書購入基金とさせていただきます」といった趣旨のホームページをインターネット上に載せたところ、山のような書物が送られ、あっという間に図書館が満杯になったといいます。
「本あまり日本」の姿です。
どこの家にも死蔵されている本がそこそこあるということで、ブックオフのような古書販売が成り立つというわけです。
この話、事実化どうかわからないので検索してみたのですが、探しきれませんでした。
前にも書きましたが、私はSFやスパイもの、ハードボイルドなど読み飛ばせるようなものが好みで、あまりじっくりと人生を味会うようなものは苦手でした。
でもこちらにきてからはそうも言っていられなくなりました。
というのはまともに本のあるところは、先の古本コーナーしかないのです。
その他には、わずかながら置いてあるのが、市立図書館の日本語コーナーがあるのみです。
この古本コーナーのおよそ半分はマンガが占め、古いビデオが少々あります。
そんな具合ですから広さが十畳に満たないであろう部屋に置かれている本の数などたかが知れています。
はじめは外国の冒険小説をあさっておりましたが、1,2年もすればほぼ読みつくしてしまいます。
読むものがないというのは手持ち無沙汰で、となるととりあえず棚にあるものは手当たりしだいということになります。
外国物だけなどとは言っていられません。
好き嫌いなどはそっちのけでなんでもかんでも活字を追うことになります。
その結果、おかげで、ありがたいことに様々な分野の本を乱読する機会に恵まれてしまいました。
犬の本から宇宙創成までです。
ちなみに、インターネットが何とか触れるよになってこの半年、読書量がガクンと減りました。
まあ、そのうち飽きてきたら、また読む量は増えていくであろうあろから、今は一時のお休みだと思っています。
さて、古本コーナーで一番多い本は何だと思いますか。
そう、「司馬遼太郎」です。
ファンが多いのですね。
買取りでなくなったかなと思うと、帰国する人がまたドサリと置いていく。
「竜馬がゆく」文庫本全8冊揃いをたった4ドル(400円)でゲットしたこともあります。
もちろん司馬遼太郎の名前は当然のことで知っていましたが、正直に言うとこれまで日本ではその小説は読んだことがないのです。
びっくりされるかもしれませんが、そうだったのです。
読んだものといえば、エッセイや「街道をいく」の2,3冊でした。
それがここにきて「シバ漬け」です。
もちろんすべてが図書館のようにそろっているわけではありません。
数冊本では、出ているものだけをまずはゲットしておき、しばらく待つとその空白の巻が出てくるので、それで穴を埋めてから読み始める、ということになります。
どうにも出てこない場合はその巻だけ、誰かこちらに来る人があったら持ってきてもらうことにしています。
「将来に残しておきたい本は何か」という問いで識者が対談したことがあります。
その結果は「坂の上の雲」であったことを覚えています。
ちなみにこの本、古本コーナーにも出にくい本です。文庫本で1冊しかでませんでした。
やむえず、全8冊を揃いで送ってもらいました。
「翔ぶが如く」は10冊本で前5冊がそっくり出ていました。
正直なところこの本は読みにくいですね。
これがあの司馬遼の本か、と思うほどの最悪の代物です。
なを、後ろの5冊は、驚くなかれ市立図書館にそっくり出てきました。
それもなんとなんといくらたっても、どういうわけか前の5冊が一向に出てこないのです。
わざわざ私のために配本してくれたようなものだと思い、腹をくくって何とかかんとかこの最悪の本を読みきりました。
「司馬遼太郎」を電子網検索してもアホらしい。
googleなら88万件と出てくる。
あの「新書太閤記」や「宮本武蔵」を書いた国民的大衆作家である吉川英治が40万件で半分、松本清張の73万件ですら15万件も司馬遼に及ばない。
15万件というのは圧倒的な差です。
何故、このあまりに誰でも知っているこのメジャナーな作家を取り上げたか。
司馬遼については十分知っている、別に聞きたいとも思わないという人が多いと思う。当然です。
そのくらいの作家だということです。
ところが、この人の作品をここで読むと別の意味で実にに生き生きとしてくるのです。
司馬遼太郎をおさらいしておきましょう。
<<<<<< Wikipedia >>>>>>
<略>
1962年より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年より『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を始めた。
この辺りの作品から、作者みずからが作中で随筆風に解説する手法が完成している。
1972年には明治時代を扱った「坂の上の雲」の連載が終了。
初期のころから示していた密教的への関心は『空海の風景(1975)』(日本芸術院賞)に結実されている。
「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。
<略>
特徴としては、常に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物しか取りあげない。
それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。
また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。
「余談だが…」の言葉に代表されるように、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内に散りばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。
<略>
歴史観: 司馬の考え方
司馬の歴史観を考える上で無視できない問題は、合理主義への信頼である。
第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右双方の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈して切り取ろうとする発想、これらはすべて司馬の否定するところである。
こうしたものの対極にある近代合理主義の体現者こそが、司馬の愛する人物像であった。
例えば『燃えよ剣』では最後まで尊王と佐幕の思想的対立に悩みつづけた近藤勇ではなく、徹底して有能な実務家であった土方歳三をとりあげ、『翔ぶが如く』においては、維新以降ファナティックなものへと傾斜する西郷隆盛よりも、大久保利通や川路利良に好意的な描写が多いのは、こうした理由によるものであると言われる。
<<<<<< ☆☆☆☆☆ >>>>>>
司馬遼の特徴は「作者みずからが作中で随筆風に解説する手法」、すなわち「余談だが…」といって「歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し」ていく、「それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質な」手法にある。
藤沢周平をして司馬遼太郎の本は「小説ではない、あれは歴史エッセイだ」と言わしめるところのものです。
日本にいる限り、小さいときから自分の体に刷り込まれている日本の歴史や人物像が自明なものとしての小説の受け皿を作っている。
小説を読むとき、その時代背景はおのずと見えており、ストーリーを楽しむことができる。
歴史を学ぶときは、事件の裏にいる人物を長い学習の間に知っている。
この前提で作家は小説を書き、歴史家は歴史を著述する。
前提があるため、書かれるものは方向付けられた理想や願望がにじみ出てくる場合が多い。
ところが、日本という「大地の枠組み」を離れると、歴史と人物が遠くなり、バラバラとなって「身近さ」がまるでなくなる。
つまり日本という国の中における理想や願望を目指した記述に違和感が発生しはじめてくるのである。
他人の国にいるのだから、これはやむ得ない。
司馬遼の作品にはこの違和感がない。
Wikipediaがいうように「合理主義への信頼」である。
合理主義とは普遍主義であり、大地の枠組みを越えて適応できるものである。
それがゆえに、その史観がグローバル化し、数字的な思考で納得のいくものが中心になる。
誰でも「そうだ、なるほど」といったものになる。
つまり理想を追い求めるということがなくなる。
強いて言えば、その場その場で数字的パズルを解くような感じになる。
この数字的パズルの上で人物を作っているのが、司馬遼の小説である。
そのために突き詰めると無味乾燥になりやすい。
そこで清涼剤、ワサビが必要になってくる。
それが「余談だが…」の書き出しではじまるゴシップ群ということになる。
つまるところ日本というネチッコイ感覚から離れて、外から日本を見るということになると、司馬遼の作品はひじょうにみずみずしく映る。
わかりやすく、のめり込まず、その一歩手前で小説を楽しむことができる、というわけである。
その歴史観というものにも理想というものがない。
お仕着せがない。
そのときの事情を合理的に記述しているだけである。
よって辻褄が合う。
あわせる必要がない。
これが何とも心地よい。
「外にいる」という心に巣くっている何とも言えぬ後ろめたさから解放されており、それが居心地をよくしている、というわけである。
市立図書館に「日本語コーナー」がある。
驚きでしょう、あるのです、本当に。
もちろん司馬遼太郎の本が作家ナンバーワンです。
これまでその棚で見たことのある作品は、先の「翔ぶが如く」の他、「花神」「新史太閤記」「峠」「風の武士」「風神の門」「項羽と劉邦」、あるいはもろもろのエッセイなどです。
つづきでは、市立図書館と日本語コーナーあたりを見てみたいと思います。
<つづく>
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